「ゴミ」と見なされている男たちの性を、スマートに捉えなおすことは出来るのか? 坂爪真吾『男子の貞操』

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坂爪本の中で「なかったこと」にされている存在

まく ここまで話していて、あらためて、この本の副題である「僕らの性は、僕らが語る」というところについて、もっと考えたくなってきました。
 坂爪さんは、次のように書いていますね。「セックスを過度に崇めたり、過度に蔑んだりせずに、毎日の生活の中で、自分の性、そして他者の性と付き合っていくスキルを身につけること」。「こうしたスキルを身につけることができれば、僕たちは、自分の性を、きちんと自分の言葉で語ることができるようになるでしょう」(p.11)。ただ、この本全体を読み、あらためて僕が感じた印象を述べると、「うまく外堀は埋めてくれた。僕らが置かれている状況を、整理して分かりやすく提示してくれてはいる。だけど、僕にとっての内側には、届いていかない。だから、語り出し辛い」という感じなんです。

杉田 ほう。

まく この本を何度か読むうちに、悲しい気持ちになってきたんですね。日頃、ジャンクヌードでゴミのように性欲を捨てている自分。そういう性行動を変えられていない自分。この本を僕は以前も読んでいるから、その頃から変わってない自分に、あらためて気づかされる……。変えるための方法論は本の中に示されているのに、そこに踏み出す勇気のない自分……。

杉田 ふむ……。

まく 話が右往左往しているかもしれませんけど……。坂爪さんは「非モテに囚われるのは止めよう、劣等感や焦燥感にかられるだけだ」(p.136)とか、「幸せな童貞も少なくない」とかも主張していて(p.87)。そして、坂爪さん自身の過去と、池袋出会いカフェ女子大生殺害事件の被告人男性Kを重ねて論じる箇所もあって(p.132)。これらの記述から思うのは、坂爪さんの議論では、劣等感や、他者ないしは世界への不信感によって、性の世界へ囚われコントロール不能になっている人の存在が「なかったこと」にされている。なんとなく、そんな風に思ってしまったんです。

杉田 「なかったこと」に。ふむ。

まく 僕自身の、性に対する劣等感は、すごく歪んでいるというか、ねじれているなあって、自分で強く思います。なかなかこれは、語り出せない。語りたくない。そう感じてしまいます。情けないですが。僕が性の問題に囚われているのは、おそらくこの劣等感が関わっていて、それを切り離すことはできない。そんな僕の内側に、もっと切り込んでくるような本を読みたい。坂爪さんの本を読みながら、そんなことを思いましたね。

杉田 なるほどね。僕がさっき触れたちょっとした違和感も、その辺に関わるかもしれないなあ。僕もまた本当に根深いルサンチマン型の人間ですから。しかしこれを「非モテかリア充か」とか「ルサンチマンかコミュニケーションか」という対立的なアングルではなくって、さらに深いところから男の性を捉え直していくような方向で、互いが生かされるという意味での「生産的」な方向に展開していきたい、そんなことを思ったな。

まく うーん……。どうしたら、もう少し男の性の世界を語りやすくできるのかな……。あれこれ考えているんですが、どうも頭がうまく回りません……。

言いよどみが許される場が必要

杉田 性の話って、ホモソーシャルな自慢合戦から降りた場所で語ろうとするなら、自分の痛いところ、語りがたいところに踏み込まざるをえない。だからどうしても言葉がよどみがち、沈黙しがちになりますよね、僕らのこの場も。でも、そういうよどみや沈黙も大事にしながら、試行錯誤していけないかなという気もします。

まく なるほど、そうですね……。

杉田 つまりですね、難しい問題を必ずしもわかりやすく語る必要はなくって、個人としては語りがたいことを語りがたいままに、しかし「語りやすい」空気感がある「場所」が大事なのかなって。事実、関係を積み重ねるって、お互いの言葉や理解のスピードが上がっていくこととは限らないですよね。関係を積み重ねるほどに、よりゆっくりと、だけどより豊かになっていくことかもしれない。
 コミュニケーションがスムースにいく理想的な対話状況を作るっていうより、色々な不純な要素がばらまかれてもそれが有機的な化学変化を起こしていくような、そういう「場所」って言いますかね……。坂爪さんの様々な場所づくりも、そういうことかもしれない。そういう場所は多様な形があっていい。

まく 杉田さんの言葉を聴きながら、自然と肩の力が抜けてきました。

杉田 そうですか?

まく 「言いよどみ」「言いよどむこと」って、前向きに捉えると、なんだかほっとしますね。「言いよどんでも良いんだ」と思える場にいるだけで、ゆっくりと目の前にある問題に寄り添いながら、しかし独りではない。なんだか、そんな感覚が得られるような気がします。

杉田 なるほど。

まく 今日、対話をしながら、僕自身のイメージとしてぼんやりあったのは……。リベラルに、かつラディカルに動いていく力を、ミクロ政治学的に、つまり僕たちの本当に身近な足元で、いまそこにある権力関係や分断線を分析しながら組み替えていくように駆動させていくというものです。男性という、マジョリティの属性を身にまとっているからこそ、考えていること、言っていること、やっていることがズレてしまう。僕たちはそういう事態が生じやすいような気もするし、それに僕たちが気づけるチャンスも少ないような気がします。だからこそ、男にとっての当事者研究という場合も、先ほど述べたようなミクロ政治学的な運動をいかに巻き起こすのか、がキーになるような気がしていたんですね。

杉田 それこそ第一回で触れた、べてるの家やダルクなども、そういうミクロ政治学的な運動という側面がありますよね。それらの歴史を踏まえながらも、僕らマジョリティのシスヘテロ男性は、それを自分たちにふさわしいものに(悪い意味でのホモソーシャルにはならないように)カスタマイズしていかなきゃいけないわけですね。

まく まさしく、そうですね。いま振り返ると、この対談の前の僕は「どうしたら僕たちに適した運動を巻き起こせるのか」と、とっても焦っていたんです。「語らねば」「語り出せ」というような、強迫的な姿勢があった。べてるやダルクは、そんな強迫的な場ではなかったはずなのに。大切なのは言いよどむことが許される場なのかもしれませんね。

杉田 運動ありきじゃなくって、はじめに個人ありきですよね。言葉ではなく、まず沈黙ありき。そうじゃないと、お互いにとって心地いい「対話」が生まれてこない。ただの「場所」が我々の本当の「居場所」になっていく。そのような居場所には、言葉も沈黙も右往左往も含んだ関係性がゆっくりと積み重なっていく。そこには当然、本を読むという経験を通して、ここにはいない不在の他者(田中さんや坂爪さん)との関係も降り積もっていくはずです。

まく 「積み重ね」というときには、言葉での理性的なやりとりだけではなく、沈黙や失語、言いよどみも降り積もっていく。そうした降り積もりも経て、熟成されていくことが、その人を変えていくのかもしれない、か……。誰かとの直接の関係だけではなく、本を通しての関係でも、それは同じだと。僕が、いま感じているこのホッとした気持ち、その実感が得られた「記憶」を、僕は今後、大切にしたいと思いました。

杉田 本当に気持ちいいことって、時間をかけて他者と混じりあいながら自分がよりよい方へと変わっていけることなのではないか。自己満足でも他者承認でもなく、自分と他者が同時に変わっていけること。いわば「自他変革」ですかね。大袈裟なことではなく、そういう地道な経験を大事にしたいなと僕は思っています。

まく いま、まさに言葉と実感をすり合わせているような感覚もあります。考えていることと感じていることを、すり合わせている、と言いますか。自分と他者が同時に変わっていける、この「自他変革」の経験って、「言いよどみも許されている安心感」だとか、「感情を共有し合えて、じんわり楽しい」だとか、そういうものなのかもなって端的に思いました。感じてみれば、とってもシンプルなものだ、と。ホントに、こういう場って大事ですね。今日はあらためて、本を読むことって豊かだなって思いましたし、本を読んだ上で対話することも、本当に楽しいなって思いましたよ。

杉田 一人で考え続けても考えつかないことを、自然に思いつけるのが対話の醍醐味なんでしょうか。独りで考える以上に、不思議と、集団的に考えた方がより深く自己発見がありますよね。それはほんとに不思議な気がします。

まく そうですねえ。

杉田 さて、続いては、それこそまさに劣等感や心の奥底の歪みにこだわっていく、二村ヒトシさんの本をめぐって、対話を続けてみましょうか。

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