遊女はファンタジーじゃない 高浜寛『蝶のみちゆき』に見る「だます東洋の遊女」と「だまされる西洋の男」

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『蝶のみちゆき』(リイド社)

『蝶のみちゆき』(リイド社)

「こいつは夏産まれやけん長く生きられんとぞ、羽の端っこが黒かろ?」
「これが夏産まれの印やっと?」
「そう。黒か帯のあるとは長ご生きん」
「へぇ…そんならこん子は可哀想かね、捕まえんどってやろ」

 漫画『蝶のみちゆき』(2015年、リイド社)は、幕末から明治初期にかけて長崎・丸山遊郭に生きた一人の遊女の愛とその短い生を巡る物語だ。

 作者高浜寛は、漫画家フレデリック・ボワレが提唱する芸術運動「ヌーベルまんが」の一員として、近年国内外から高い評価を受ける長崎・天草出身の漫画家。『蝶のみちゆき』はそんな高浜の代表作の一つで、高い画力や確かな時代考証、魅力的なストーリーテリング、そして何よりも身体や心の痛みに寄り添う誠実さといった、彼女の魅力をこよなく伝える作品となっている。

 物語の中心になる丸山遊女、特にオランダ人を顧客とする「オランダ行き」と呼ばれる遊女は、遊郭という苦界に閉じ込められていると同時に、当時の日本においてほとんど唯一西洋の文化に開かれた女であるという、とても特殊な立ち位置にいる存在だ。

 作中でもしばしば印象的に描かれる思案橋の二重門によって、丸山遊郭は外界から隔絶された独特の閉鎖的な空間になっている(吉原などに比べると遊女の自由が認められていた丸山遊郭では、遊女の逃走を防ぐという目的は比較的薄かったようだけど)。それと同時に、舞台になる長崎・出島は、長い鎖国を続ける日本にとって西洋近代の文化や科学に触れる数少ない窓口でもあって、主人公の遊女はその立ち位置を使って、オランダ人の医師から最新の医学知識や(本当は届け出が必要な)西洋の商品などをこっそり譲り受けたりもする。第2話の最後に攘夷志士に向かって語るように、彼女(ら)は、西洋を高い軍事力や科学という「正面」から脅威として見た男たちとは違って、西洋にある種「裏口」から入り込み、「何やわっちらの知らん物(…)の側で、ちぃとばかし夢を見」ていた。

 この「閉ざされているけれど開かれている」、あるいは「閉ざされているからこそ広い世界のファンタジーを思い描く」、というのは、『蝶のみちゆき』だけでなく現在『コミック乱』(リイド社)およびWebマガジン『トーチ』で連載中の『ニュクスの角灯』でも繰り返されるテーマで、傷ついた人の痛みを描きながら、世界にはどこかわくわくさせるものがあることを伝える、高浜の描く漫画の魅力の源泉であると思う。

 今回はそんな『蝶のみちゆき』を取り上げて、そこに描かれる丸山遊女と、彼女らが出会う西洋や明治日本という「近代」との関係を考えてみたい。

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