わたしはかわいくて、気が利いて、セクシーで、やさしくて、服のセンスが良くて、もちろん服だけじゃなくてインテリアや小物にいたるまで非凡なセンスを発揮して、そのうえなんと料理も得意で、時にはお菓子づくりも軽くこなして、誰にでもすぐ愛されて、見た瞬間思わずさわりたくなるようなつるつるすべすべの肌をした女だ。(「みがきをかける」)
そんな呪文を胸の内で唱えながら、エステでの永久脱毛にいそしむ「私」。女にとって、毛の問題は重大です。振り払おうにも振り払えない、いつまでもどこまでもつきまとう呪縛のようなもの。彼氏とカフェでお茶をしていても、剃り忘れた腕毛のことばかり気にしてしまうし、その彼氏に二股をかけられた挙句フラれても、もうひとりの女と毛の具合を比べられていたんじゃないかと悶々としてしまう。女は毛なんて生えてちゃいけない。つるつるでなくちゃいけない。でもいったい誰が、毛が生えていないほうがきれいだって思って毛を剃り出したんだろう。いったいどうして、二十一世紀に生きている私たちも同じようにそう思って、高い金を出してちまちま脱毛サロンなんかに通わないといけないんだろう。
毛が生えていてはいけない。いかなるときもきれいで、かわいくあらねばならない。男を恨まず、嫉妬に燃えたりせず、しつこくせず、怒り狂ったりもせず、いつでも聞き分けのよい女でいなければならない。結婚、出産、育児のステップを正しく踏むこと。母性あふれる存在でいろ。家事は完璧にこなして、でも仕事は男よりできすぎるな。セクハラは笑って許せ。痴漢やレイプをされても仕方がないと諦めろ――現代を生きる女性たちは、つねにこうした「呪い」に苦しめられています。いったい誰が、こんなことを決めたのか。いったいどうして、私たちは律儀にこんな「呪い」に縛られ続けているのか。いまはもう、二十一世紀なのに。
松田青子『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)は、そんな「呪い」に囚われた現代の人びとのもとに、『娘道成寺』の清姫や『番町皿屋敷』のお菊さん、『四谷怪談』のお岩さん、八百屋お七といった、情念深い女もののけたちを口寄せしてくれる連作短編集です。脱毛をはじめとする「自分磨き」にとり憑かれた「私」のもとにも、妾をしていた男を恨み化けて出た「おばちゃん」がやってきて、彼女を一喝します。「あんた、なにしてんねん。なに、毛の力、弱めようとしてんねん」。おばちゃんは男に彼氏にフラれ傷心の「私」に、一緒にしつこくて、ダイナミックで、かっこ良い清姫みたいになろう、と持ちかけてくるのですが、この小説に登場する女もののけたちは皆、このようにとってもエネルギッシュ。執着心や、恨みや嫉妬や憤り、情念の炎を隠すことも恥じることもなく燃えたぎらせている、スーパーなもののけなのです。松田青子という書き手は、こうした頼もしい女もののけたちをぞろぞろ口寄せし、軽妙な筆致を通して読者たちにバッシバッシと念を送りつけてきます。「牙を抜かれるな、それがあなたの才能です!」と。
ある才能をないことにされてきた女たち、ない才能をあることにされてきた男たち
そして「もののけ」という存在が私たちに思い起こさせるのは、女たちが苦しむ「呪い」――現代の女性を取り巻く問題の多くが、「もののけ」のように、「見える人には見えるけど、見えない人は見えないし、見ようともしない」ものであるということです。「もののけはいる」と言えば「ああ、そういうのいるらしいね」と他人事のように受け流され、「もののけをこの目で見た」と叫べば「気にしすぎじゃない?」と一笑に付され、「もののけは今もここにいる」と説こうとすれば「はいはい、霊感あるってアピールしたいんだね」と遠巻きにされる。社会の中で、女性がいかに低く見られ、才能をないことにされ、活躍の場を奪われ、ないがしろにされ、型を押しつけられ、苦しめられてきたか。「見える人」にはひしひしと、痛いほどに現実味をもって感じられるのに(というよりそれが紛れもない現実なのに)、「見えない人」にはまるでファンタジーのように聞こえてしまう。ただの「怪談話」として、その怖さを薄っぺらく消費されてしまう。
しかしこの小説は、こうした問題を女たちだけのものとして扱っているわけではありません。清姫のようになろう、とやってきたおばちゃんには茂という名前のひとり息子がいました。彼はおばちゃんの死(おばちゃんは男への恨みから首を吊って自殺していました)のショックから就職活動に失敗し、陰気なフリーターとなっていました。「どうして自己をアピールしなければ、エントリーしなければ、働くことができないんだろう」。男だから正社員になるのが当たり前、男だから女よりも仕事ができて当たり前、男だから強く生きられるのが当たり前……。「男だから」という理由で社会から優遇されてきた男性たちにとっても、「男だから」が呪いの言葉となる時代がやってきたのです。
社会は不公平だ。男子社員は、できないこともできるふりをしなければならない。女子社員は、できることもできないふりをしなければならない。これまでどれだけたくさんの女たちが、ある才能をないことにされてきたんだろう。これまでにどれだけの男たちが、ない才能をあることにされてきたんだろう。
フリーターとなった茂の現在の職場は、実はもののけたちが人間に混ざって働く不思議な会社でした。この会社では『牡丹灯籠』のお露が文字通り「牡丹柄の灯籠」を訪問販売したり(怪談同様、彼女の「こ、こ、あ、け、て」には顧客も抗えません)、子育て幽霊(飴買い幽霊ともいいますね)が苦境に立たされたシングルマザーの援助をしたりと、さまざまなもののけたちが、それぞれの才能を活かして仕事をしていました。おかしくも気楽な職場で働きながら、茂は荒波にもまれ、ぼろぼろになった精神を回復させていきます。
仕事にも慣れ、異動した先で彼の上司となったのは、クズハという優秀な化け狐でした。彼女は人間の女として生きるうえで、その優秀さが社会で疎まれるのだということをよく知っていました。そのため、これまではだいぶ手加減をして生きてきたのですが、今の職場では、誰に気兼ねすることもなく、思う存分に力を活かして働いています。賢いクズハはそれだけではなく、男たちが社会でさらされるプレッシャーについてもよく理解していました。本当は仕事なんてできなくても、「男だから」という理由でできることにされている。「男らしさ」なんてものが重荷になっていても、上の世代をはじめとする周囲がそれを手放すことを許してくれない。彼女は男たちに心から同情します。「かわいそうに。こんな世の中に放り出されて」。
クズハがOLをしていたときと、社会はだいぶ変化した。今では、男でさえ正社員になるのが難しいらしい。悪い意味で、平等になった。女が上がらず、男が下がってきた。かつては女にしか見えなかったはずの天井が、この青年にも見えていることがクズハにはわかった。
ねえ、驚いている? 話と違うって思った? でもねえ、女たちは小さな頃からずっと、その天井が見えてたの。見えなかったことなんて一度もないの。でも、皆それでも生きてきたし、なんとかなるわよ。(「クズハの一生」)
かつては怪談話のように「あちら側」のことだと思われ、当事者以外の存在から黙殺されていた「呪い」は、今ではもう「あちら側」と「こちら側」の境界をなくして、社会全体に広がっています。それをぼんやりとしたものととらえるか、はっきりと実体を持ったものとしてとらえるかは人それぞれです。でも、たしかにここにあるのだということは、そろそろ否定できないのではないでしょうか。生きづらいのは、女も男も関係ない――「ある側面では、女と男の絶望の量がもうすぐ同じになる」。しかし、これはひょっとしたら、幸運と呼ぶべきかもしれません。少なくとも、女だけのもの、弱者だけのものとされてきた数々の「呪い」の一部が、「見える人」だけのものではなくなるのですから。これまで、自分が見えないものを見ようとする、あるいはその存在を信じようとする人びとは、あまりに少なすぎました。ですが、こうなってしまえばもう、誰もが「見える人」にならざるを得ない。
この二十一世紀という時代に漂う絶望を、『おばちゃんたちがいるところ』は必ずしも暗いものとして描いているわけではありません。怪談話のように消費されるだけだった「呪い」というものの存在を、この時代を生きる人びとが、すぐ隣にある現実としてみとめることができるようになったのです。誰もが絶望と共存する時代がやってきたと、そう言って良いのではないでしょうか。それは案外、生きやすい世の中になるかもしれません。ちょうど、もののけと人間が一緒になって働く、あの奇妙な会社のように。
(餅井アンナ)