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合理的で感情の乏しい新人類がピカピカして見える。いかに分断から脱却するかを想像させる映画『太陽』

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ただ、この映画からは、差別される側、差別する側のどちらにも倫理があり、個人レベルでは悪い人はいない、という印象を受けました。どちら側にも倫理があるからこそ、キュリオの村に門衛として駐在しているノクス・森重(古川雄輝)と、キュリオの鉄彦(神木隆之介)の友情が成立します。この二人の関係は、北朝鮮と韓国の兵士が共同で警備にあたる中、許されざる友情をはぐくむ『JSA』にも似ていました。最初は、抗体を持ち、支配者階級であるノクスのご機嫌取りをしているような雰囲気にも見えた鉄彦でしたが、その気持ちがやがて本物の、ノクスだろうがキュリオだろうが関係ないという友情に変わっていくところが、この映画の見どころでもあるでしょう。特に第一印象ではどこか冷たく親しみにくい雰囲気を持つ森重が、ある事件をきっかけに「怒り」を抑えられなくなる鉄彦に「だめだ、だめだ鉄彦、おまえは行っちゃだめだ」と自分の手が太陽で焼けそうになりながらも抑えるシーンにぐっときてしまいました。

このシーンのノクス=森重の行動には、ピカピカしていて不気味なポジティブさはあるけれど、感情にまかせて暴力的な行動をしないという、ノクスの持つ性質の良い部分が現れていて、それが、キュリオの持つ、感情的で人間的だけれど、その感情のひとつ、怒りの連鎖が世の中を混乱させることもある、という性質から起こった出来事と触れて、両者の持つ利点と脆弱性を際立たせていました。そして、その脆弱性については、相互の理解で埋まるとも思えました。単純すぎる解釈かもしれませんが。

それにしても、2016年は『ライチ☆光クラブ』といい、この『太陽』といい、古川雄輝さんの、ほかの俳優には出せない演技にはっとさせられた一年でした。たぶん、一見完璧で冷たそうに見えて、その奥にどこか隠しきれない隙のようなものが漏れてしまうところがあるからなのでしょうか。

現在は、国内であっても、思想や収入などで、人びとの間に隔たりがあるような状態がいろんな国でも可視化されてきました。そうした状況を、そのまま当てはめることはできない作品ではありますが、何かの条件のせいで、人が分裂してしまった状態と、その状態をどう脱却するかを想像するには十分な作品でした。

残念なところがあるとしたら、この映画の宣伝に「SFであり、青春ドラマであり、ラブストーリーであり、究極の家族の物語でもある」と書いていたところでしょうか。

なんでもかんでも家族や恋愛や青春に結びつけなくてもいいのではないかというのが正直なところです。確かにこの映画には友情を感じる描写もありましたが、それを強く感じさせたのは、分断されたいびつな状況があったからこそでした。そして、この物語の主題は、むしろ、その分断された状況から、現在の自分たちの置かれた社会を考えることだと感じました。そういった重さのあるテーマは、舞台には向いても、より広い層に届く映画には向かないという常識があると考え、だからこそ友情や恋愛や家族といった要素を前面に押し出そうとしたのかもしれません。しかしそれは「女性はピンクが好きだろう」という視点で商品を作ってしまう「ダサピンク」と同じことです。作品が描こうとしていることを、そのままに観客に伝えてもいい時代が、そろそろ来ているのではないかと思うのです。
(西森路代)

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