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妄想・幻覚もひとつの「現実」である・統合失調症患者の「現実」とゆらぎ――卯月妙子『人間仮免中』『人間仮免中つづき』

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すごいのは「メンヘラの人生」というコンテンツではない

 作者のように何らかの精神疾患を抱えた人びとは、その人生が強烈であればあるほど、いわゆる「メンヘラ」という用語で表されるようなコンテンツとして消費されがちです。現に、『人間仮免中』を評価するレビューの多くは、作者自身の「壮絶な人生」に焦点をあてたものでした。しかし、『人間仮免中』がすぐれて力強い作品であるのは、作者・卯月妙子の人生が壮絶なものであったから――という単純な理由ではないように思われます。

 一度でも読んだことがある人ならば身に覚えがあると思うのですが、この漫画は、読み手の精神を非常に疲れさせるものです。ひとたび本を開けば、ジェットコースターに乗せられたかのような猛烈な勢いに取り憑かれて読んでしまうのに、ページをめくってみると驚くほど進んでいない。読んでいるうちに不安定な気持ちになって、乗り物酔いのようなめまいすら感じてしまう。このような奇妙な現象が起こる理由として、作者の描く世界が、私たちが日常用いている「現実」を読み解くためのコードにのっとっていないから、ということが挙げられます。それはたとえば常識や規範と呼ばれるものであり、こうしたコードがあるからこそ、私たちはある出来事についていちいち深く考えなくとも、ほとんど自動的にそれを解釈し、物事をパターン化・あるいはカテゴライズして捉えることができるようになっているのです。

 ところが『人間仮免中』において描かれる世界では、そのような便利なコードはほとんど通用しません。 常識のコードをひとつひとつ外しながらでないと読み進めることができないのです。今まで自分たちが信じて頼ってきたものを手放すわけですから、どんどん「現実」が、自分が分からなくなる。これは間接的に作者の統合失調症の症状を体験しているのだと言えます。この漫画がいわゆる「闘病記」や「体験記」という体裁を取っていないことも大きいでしょう。『人間仮免中』は、読者に分かりやすく統合失調症の症状を説明し、理解を求めるという類のものではありません。「健常な」人びとに理解を求める「体験記」は、完全に「健常な」言語で書かれるものですが、この漫画の作者は、むしろ「患者の」言語と「健常な」言語のバイリンガルとして「統合失調症」を伝えています。だからこそ、私たちはこの作品を読んでこんなにも心が、感覚が揺さぶられる。つまり、『人間仮免中』という作品の最も優れた、特有な点は、卯月妙子という女性の「壮絶な人生」ではなく、読者の「現実」をゆらがせる、彼女の「筆力」なのです。

 また、常識や規範のコードが通用しないというのは、作者を取り巻く人びとのありようにも言えることでしょう。「1に、この世にあること! 2に、快くこの世にあること! 生き様なんて5番目だ!!」というボビーの台詞にもあるように、ボビーや母親をはじめとする周囲の人びとはみな、「正しく生きる」ことよりも、卯月妙子という個人が「快く生きられる」ことを大切にしており、一見はちゃめちゃで、とても常識的とは言えないものの、温かく愛に満ちた関係を作者と築いていることが彼女の漫画からは伝わってきます。

 彼女を取り巻く人々が、漫画の中で温かく描かれていること。これもまた、「彼女の周囲の人びとが彼女を愛している」という事実だけに回収されるものではありません。娘のためにダメな医師を怒鳴りつけ、退院早々彼女が吸いたがっていた煙草を「退院したばかりなんだから」とも言わずに差し出してくれた母親。こうした思いやりも、作者がなんとも思わなければ、作中であのように描かれることはなかったはずです。そして、癇癪持ちで型破りで、でも照れ屋で情に厚くて涙もろくて、卯月さんが大好きなボビー。作中で描かれる彼の姿は、とてもかわいい。ボビーという人間を、漫画の登場人物としてしか知らない読者にも、涙が出るほど愛おしいと思わせてしまう。これもまた、卯月妙子の「筆力」によるものでしょう。

 この本を読んだ人は一様に、「これは、愛の物語だ」と口にしてしまいます。ですが、やはりこれも、卯月妙子という人の人生を指す言葉ではないように思います。愛しい出来事・愛しい人びとを、作品の中に愛おしく描くこと――彼女はそれに間違いなく成功しています。それこそが漫画家・卯月妙子の何よりの愛の証であり、『人間仮免中』という作品を、「愛の物語」たらしめているものなのです。
(文・餅井アンナ

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