やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

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やっぱり「モテなきゃダメ」?

まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』まで読むと、書くこと自体が二村さん自身の「モテ」の触媒になっているとは言えない……。いや、表面的には「モテ」の触媒になっているように見えるかもしれないけど、二村さんも根底的には非常に孤独に闘っているんだな、という印象を持ったりしましたねえ。

杉田 そうですか。

まく しかしどうなんだろうな、独りで対峙する勇気をもらえるような本かどうか、か……。例えば僕は先日、二村さんが監督、出演をしているAVを見てみたんです。二村さんがセックスしている姿を見て、二村さんが一方では非常に孤独に見え、しかし精一杯闘っている、という印象を受けたりしました。そこに、勇気をもらえた感じもあったんですね。僕もうまく言えないんですけど……。

杉田 ほう……。

まく ちなみに、そのAVを見て僕はとても興奮したし、女優さんもとっても美しく見えましたが。なんだか、不思議なAV視聴体験でしたねえ。

杉田 そうですか。僕は彼が出演したり監督したりしている作品は観たことがないですね。観てみると印象もまた違うのかな。

しかし、素朴過ぎるかもしれませんが、やっぱりモテなきゃダメなんですかね? それが「すべて」なんでしょうか? 二村さんの考え方の中から「たとえモテず、愛されずとも、優しく幸福に生きていく」というような問いが出てくるのかな? そういう問いにも居場所がありますか。

まく そうですねえ。まず、僕が勝手に『すべてはモテるためである』を読み替えながら読んでいた、という点はあると思います。『すべてはモテるためである』は、確かにモテる/モテないをめぐっての議論、恋愛関係、恋人関係、性愛関係をめぐっての議論として提示されているとは思います。でも、おそらくそれ以外の関係、日々のあらゆる誰かとのやりとりでの関係でも、適用可能な議論ではないかと思ったんです。誰かと互いを尊重しあって生きていく技法として。

杉田 なるほど。そうか。

まく ただこれは、明らかに僕が広げて読み込みすぎだと思います。そういう意味で、ぜひ『非モテの品格』をセットで読んでみて欲しいと感じます。……僕が言うのも変ですが(笑)。

杉田 なるほどね。僕はかなり何かを投影してしまっているのかもしれないなあ。というか、まくさんの目からみて、僕が感じている二村さんへのもやもやした感じの正体って、なんだと思います? 率直なところ。

まく いやー、なんでしょうか……。

杉田 身も蓋もないけど、二村さんがモテる人間で、僕がそうではないからですかね?(笑)

まく いや、こういってはなんですが、僕も恋愛・性愛面ではモテたことがないわけで……。でも、僕はあんまり二村さんへのもやもやを感じたりはしないんですね。なんなんでしょうね……。お互いの非モテ意識に、やや違いがあるってことですかね?

杉田 そうですね。我々の違いが結構重要かもしれないですね。「非モテ意識」や「男らしくなさ」にも様々なタイプがあるのでしょう。この辺は今後の課題になるのかな。しかし、うーん……。

(この後、10分ほどの沈黙)

自分の中の「モモレンジャー」

まく ……少し話を変えますね。本の中で、自分の【居場所】を見つけよう、【心のふるさと】を見つけよう、というメッセージがありました。「他の人に、その【居場所】のことをエラソーに一方的に長々と話さないこと、そうしてしまうのは自分に自信がないからだ」「本当の【居場所】は、ひとりでいても寂しくない場所で、それをひけらかさなくても良いところだ」というくだりを読むたびに、「自分にはまだ見つかっていないな」「あー、自分はまだダメだなあ」と思いますねえ。自分の好きなことを、他の人へついつい、ひけらかして語りたくなってしまいますからね。

杉田 面白かった点、他にはどうですか?

まく そうですねえ、あとは、「心の中のゴレンジャー」論ですね。

杉田 ああ、あれは僕もよかったと思いましたね。

まく 平野啓一郎さんの「分人主義」論(『私とは何か―「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)や『空白を満たしなさい』(講談社)を参照のこと)のようなものですが、それを当事者研究的に導いていく文章が、とても良くて。

日常の出来事と重ねあわせながら読んで、とても面白かったです。「あ、あのときのキザだった僕って、アオレンジャーだったのかも」とか、「だらしなかった、あのときの僕は食いしん坊のキレンジャーっぽいな」って。そうやって意識化して、それらの自分をありのまま尊重していけたなら、より豊かな自分になれるんじゃないかなって思いましたね。自分をひとつとして捉えず、複数であると捉える感覚は、当事者性を考えていく上で、とても大切ですよねえ。

杉田 あなたの中にも必ずモモレンジャーがいる、つまり女性らしさがある、というわけですよね。

まく それです、それです。モモレンジャー、心の中の女についても凄く話したかったんです。実は僕、他のレンジャーは心の中にいる自分として当てはめられそうだったんですが、モモレンジャーだけは、なかなか想像できなかったんですよ……。

杉田 僕は自分の中の女性性をちょっと想像しましたね。

まく 自分がモモレンジャーのことだけは思いつかない事実がとても興味深かったです。僕は、僕の中の女を、いないようにいないようにしているのかもしれないな、と。僕の母親は過保護だったので、日頃、過保護に扱われたい自分と、しかしそうはされたくない自分と、闘っている面があるんですね。「もらいたがっている」自分がいて、でもそんな自分がイヤで、日常の中で自分を打ち消そうとしているんです。それが影響して、自分の中の女をいないようにしているのかもしれないな、と。

杉田 そうか、母的なものか。

まく この議論でいう二村さんにとってのモモレンジャーは、二村さんの母親です。そしてその母親から来る二村さんの深層心理の女性観に信田さよ子さんは痛烈な批判を浴びせていました。ですので「心の中のモモレンジャー」論自体にも、何か再検討すべき点があるのかもしれません。

杉田 それも課題だなあ。江藤淳じゃないけど、母なるものの呪縛ね。異性に対しても無意識のうちに母親の影を求めてしまうという。素朴だけど、これ厄介ですね。単純にマザコンとか、母に去勢された、という話でも割り切れない気がする。

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