やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

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「超自我としての、厳しい女性性」

まく まったくですねえ。先ほど杉田さんは、自分の中の女性性を想像できたって言ってましたけど、どんな感じなんですか?

杉田 ……さっきはあっさり言っちゃったけど、いざ考えてみると、言葉にしがたいっすね。なんていうかな……優しくされたいとか、抱きしめられたいとか、守ってほしいとか、そういう感じかなあ。でもそれって、ジェンダー役割的な意味での「女らしさ」でしかないですよね。

まく あー、なるほど。

杉田 だから、そういう「女らしさ」が自分の中にある、って口にすると、女性からは「それは男がイメージする女らしさであって、現実の女性そのものではない」と批判されるだろうな、って思って。

まく うーん、そうですねえ……。

杉田 そういう「男が何を言っても叩いてくる」という「女性性」のイメージも自分の中に別人格としてある気がして。ある種の超自我みたいな感じでインストールされている感じもします。ややこしい。

まく すごく興味深いです。杉田さんにとっての「女性性」、ここまで聴くと、凄く複雑で、でもリアルな感じがします。そういう「女性性」を自分の中に感じている男性は、他にもいるんじゃないかなあ。

杉田 「超自我としての、厳しい女性性」は結構大事なテーマかもしれない。「男だからしっかりしろ」という命令と、「男が何をしようが所詮は女の手のひらの上」という無力さをダブルバインド的に同時に求められているような。それは母の呪縛とも違いますね。この辺は精神分析が色々論じているかもしれないけど、よくわかりません。

まく ふーむ、そうですか。杉田さんにとっての心の中の「女性性」を掘り下げると、そういう論点に行き着く、と。面白いなあ。

「感情を感じきる」とラクになれるってどういうこと?

まく 二村さんの本を題材に、色々と話してきましたが、性に関しての話題は、語り合うことの難しさがありつつも、当事者研究的に非常に重要だな、とあらためて感じました。杉田さんはいかがですか?

杉田 そうですね。自分の性愛や欲望に対峙することは、どうしてももやもやがつきまといますね。そしてそれは案外、大事なことなのかもしれない。優柔不断なまま、もやもやしたまま知的であろうとすることは。それは反知性主義とは逆の態度でありうる気がする。

まく ふむ。

杉田 たとえば『すべてはモテるためである』の文庫版の対談相手の國分功一郎さんは「非モテ」にはっきりとダメ出しをしていますね。もやもやした感情はダメなんだ、と。思いっきり羨むのでもなく、はっきり断念するのでもない、そういうのがダメなんだと。

まく そうでしたね……。

杉田 モテたいと思うなら、モテたいと思いっきり願え。感情を感じきれ。國分さんの言うことはすごく分かるんだけど、でも僕は、単に不徹底な情念ではなくて、どんなに考えてもどうしても残る人間の内なるもやもや、ダメさや弱さを大事にしたいし、そこから何が生まれてくるか、そのゆくえが気になる。僕の文章も蛇行しまくりだし。人間にとっては、優柔不断なもやもやというエレメントが大事な局面もあるのではないか。

まく うーん、もやもやについてなんですけど……。僕は二村さんの本を最近再読した後、「感情は、考えるのではなくて感じきる」というのを、自分も日々でやろうとしているんです。うまくできて、そのおかげで、それまでは考えすぎて動けなかった自分がスッキリ動けたことも、一回だけあって。そのときは良かったんですが……。

ただ、なかなかうまくいかないんですよね。うまく感じきれないときが多すぎる。ついつい考えちゃう。もしくは、何か別のこと(本とか、ネットとか)に逃げてしまって「感情を感じきる」をしないように逃げてしまう。二村さんの本を読んでから、「モヤモヤしている自分は、感情を感じきれないせいじゃないか」「うまく感じきれない自分は、ダメだなあ……」なんて、もやもやしてるんです(笑)。自分のもやもやを、どう扱ったら良いかわからなくてもやもやしている(笑)。こういう自分が自意識過剰すぎてダメだなって思いつつ。……返答に困るかもしれないですけど、こういう僕に対して、杉田さんはどんなことを思いますか?

杉田 どうなんだろう。わかんない。感情を感じきるって、どうすればいいんですかね。もやもやした気分って、考え(思考)と感情(身体)がすっきり区別できない状態という気がするから……。もやもやした気分に忠実になって、しかし自縄自縛にもならず、自己嫌悪もため込まず、どこまで行けるのか、ということなのか。というか、僕はずっともやもやしている人間なので、すっきりしたアドバイスもできず……。

まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』では、「感情を感じきること」について、こう書いていますね。「苦しい感情が湧いた時は、よけいな考えをめぐらせたり、自分を責めたり相手を責めたり、卑屈になったり自己正当化したりせず、ただ自分の感情を【感じきって】みてください。原因や、未来・過去のことなどを考えず、ただ起こり、ただ悲しんでみてください。(中略)自分の感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料をくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきるのです。その方が早くラクになれるはずです」(p.152)と。

杉田 「感情を感じきること」って、瞑想みたいな感じなんですかね。

まく うーん、いや、どうなんでしょう。

杉田 違うか。「早くラクになれる」って、どういうことなんだろう。

まく 本を読んでみると……、一晩中びいびい泣く、枕やクッションを叩いて怒りまくる、自分だけしか見ないノートに気持ちを書く、とかが「感情を感じきること」の例として挙げられていますねえ。

杉田 ああ、そうか。ちょっとイメージしていたのと違った。読んだはずなのに忘れていた。怒りや悲しみをそのままにしておくほうが、燃料が早く自然に尽きてラクになれると。するとやはり、二村流でいけば「もやもやしている」状態をそのままにしておくしかないのでは……放っておくと、もやもやが自然におさまってくると。

まく うーん……。

杉田 いや、怒りや悲しみのような具体的な感情と、もやもやのような曖昧な気分は、別物なのかな? 哲学なんかでは、具体的な対象のある「感情」と対象の無い曖昧な「気分」(不安や疲労など)が区別されたりしますけど。もやもやした気分は、感情じゃないから、放置して燃え尽きることがないのかしら。もやもやには「感情は考えずに感じきる」とは別の対処法が必要とか?

まく なるほど。僕にとっては、怒りや悲しみのような具体的な「感情」と、もやもやのような曖昧な「気分」は、別な感じがします。僕の場合は、端的に「自分の感情がわからない」、そして、「自分の感情を感じきることが怖い」という感情(気分?)があるのかもなあ。いずれにせよ、「感情」と「気分」という区別を考えることは、僕にとって大切な気がする。

杉田 そろそろ時間ですね。……今回はなんだかとくに中途半端なまま、僕らの対話も終ってしまいましたが、引き続き、次回以降ももやもやした気持ちを抱えたまま考え続けていくことになりそうですね。

まく そうですねえ。

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