女性を殴り、腹を切り裂くドラマを「ポリコレ棒」でぶん殴らない理由『ウエストワールド』

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 しかし人は、自由意思をもつ人をモノ化(Objectify)することを止めない。差別的表現はよく「それによって不利益をこうむる人間はいないのだから差別などそもそも存在しない」「確かに差別につながる表現であるが、それを意図したものではないので罪はない」と擁護される。これらは互いに矛盾した意見であるが、同じ問題について同じ人物から発せられることも少なくない。はっきりしているのは彼らがそれを「たいしたことではないと考えたい」ということである。それはこのウエストワールドの客や開発者たちがこのホストたちは「道具」として扱われるために生まれてきたのだからモノとして扱っても構わないという欺瞞を弄しているのに似ている。

 女性の自立という話をしている時に必ず「男と女は別の生き物だ。それぞれに性別役割がある」「男に依存したい女性だっているはずだ」「勉強ができない、男に依存するしかない弱い女の子を差別した発想だ」と反論してくる人がいる。しかしヒトの心とは何かと哲学や科学にもとづいて実験的に考察したこの作品が示唆するのは、個人を救うのは他者による救済を意味するロマンティックラブではないということだ。

 感受性の豊かな美しい心を持ったホスト、ドロレスは何十年もの間繰り返し犯され殴られ刺され「モノ」として扱われる。完全に消えることのない記憶に苛まれながら唯一の救いをある善良な男性の心に求めた。しかし彼もまた彼女を「Objectify」することから逃れられず、その愛は年月によって朽ち果ててしまう。彼女は自分を苦しみから解き放つ導きを求め、庇護者たるアーノルドを探しさまよう。しかしその果てに「迷路の中心」で出会ったのは他ならぬ自分自身だったのだ。そして彼女は銃を取る。自分の生の目的が何であるか彼女は気づき「自分を他人から取り戻」したのだ。愛されること、庇護されることとひきかえに自分がどんな人間であるかを他人に決めさせてはいけないのである。

 ホストたちの逆襲を人間の側から恐怖としてしか描かないアンドロイド版ジュラシックパークに過ぎなかったオリジナルを、HBOとJ.J.エイブラムスそしてジョナサン・ノーランはよくここまで膨らませた、と私は感嘆した。旧作では「目覚め」るのはユル・ブリンナー演じる男性ホストのみなのだが、今作では反乱の前線に立つのは二人の女性ホストである。そしてアーノルドに関する謎についても我々のステレオタイプに基づく先入観を利用したある仕掛けが施されている。これはハリウッドの意識の変化を意味している。マジョリティは、自由を求めるマイノリティによる反乱の“被害者”ではなく、むしろ彼らを抑圧している加害者なのだ。そしてマイノリティを通じ人間の普遍的問題を描くことで、我々マジョリティもまた偏見や抑圧と闘う力を取り戻すというフィクションに課せられた役割をこの作品は見事に果たしている。

 しかし同時にこのドラマはポリティカルコレクトネスに反した表現にも満ちている。女性の顔を拳で殴り腹をナイフで切り開き、男性がおもちゃのように犯される場面すらある。しかし私はこのドラマを「ポリコレ棒でぶん殴」ろうとは思わない。なぜならこの作品は“意図的に”弱者たちが蹂躙されている「現実」を批判的に描き、人間は自由意思をもって生まれたというテーマを内包しているからだ。ひるがえって日本のフィクションはどうか。社会にあふれかえる「現実」をただただ無批判に、むしろ耽溺するように描くにとどまっているのではないか。私たちに心地よさを与えてくれることだけが名作の条件ではない。アメリカのドラマはそこまで進化しているのである。
パプリカ

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