「LGBT」ということばが世に知られるようになって久しい。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を取った、性的マイノリティを指す略称だ。近年、日本のメディアでも「LGBT」という用語を見る機会が増えたようにおもう。しかし「LGBT」の看板のもとで語られるのは主にゲイ、レズビアンにとっての同性婚という政治的課題についてが多い。
トランスジェンダーの就労を受け入れるという企業の声が伝えられることもあるが、紹介される当事者はMtF(Male to Female: 男性から女性化する人々)よりFtM(Female to Male: 女性から男性化する人々)のケースがほとんどだ。これは、表面的な性別移行においては男性化するほうが容易で、MtFよりFtMのほうが若いうちから社会になじみやすいためではないかと考えられる。MtFにおいては体毛の除去、人によっては顔の形成手術など医療が必要で、この資金集めに困難があるし、また不自然でないかたちで低い声を高く出すことに苦労するし、骨格自体は変えようもない(一方、性別適合手術においてはFtMのほうが困難を抱えている、という現実がある)。
日本のMtF、つまりトランスジェンダー女性(以下、トランス女性)は、芸能人や、女性性を売りにする「ニューハーフ」と呼ばれる水商売・風俗業に従事していたり、身ぎれいにしている人々がメディアなど表に出る機会が多く、パブリックイメージを形成しているとおもう。
マサキチトセが『現代思想』(青土社)のLGBT特集(Vol.43-16)で指摘したように、アメリカでは〈非ヒスパニックの白人であり、植民地支配する側の人間であり、米国民であり、男性であり、私財を持つ、そういった者を中心に構成されている〉主流派におもねるかたちで、「LGBT運動」が広まっていくことが懸念される。つまり主流派に同化できない性的マイノリティは社会的に受け入れられないということだ。〈非差別集団がいかにまっとうな人間であるかを説明する形で差別解消を訴えるような政治活動のやり方〉と同誌でマサキは書いたが、人種のうえでは多様ではない日本でもこの動きは見受けられる。昨年、「messy」の記事での遠藤まめたの考察でも、〈「ところで社会規範に合致する/あるいは使えるゲイもいるんですよ」というマイノリティ内での階層化〉として「エリート・ゲイ」写真の問題がひとつの例として挙げられた。
そういう状況にあって映画『タンジェリン』の新しさが際立つ。ロサンゼルスの、売春や薬物使用が目立つエリアが舞台で、主流派におもねったクリーンな「LGBT運動」の文脈では語られることの少ない、トランス女性の娼婦を虚飾することなく、ダーティな日常をそのまま見せてくれる。
クリーンではないトランスジェンダーの世界を描く『タンジェリン』の新しさ
本作の主要人物、シンディとアレクサンドラは共にトランス女性で娼婦だ。28日間の服役を終えたばかりのシンディは、街角のドーナツ屋で友人のアレクサンドラと談笑している最中に、自分が不在のあいだに恋人が金髪の白人女性と浮気をしていたと聞かされる。ブチ切れたシンディは、恋人とその浮気相手を探しに街中を駆けずり回る。面倒はごめんだと言いながら、シンディに付き合うアレクサンドラは歌手を目指しており、この夜にライブを控えている。
シンディとアレクサンドラは、いわゆる「Fワード(Fu×k)」を連発し、雑然とした語りに知性の匂いはしない。日本にも、オネエ・オカマキャラを売りにするタレント、水商売従事者のなかには、彼女たちに似た人物は存在する。
「LGBT」同様に、「トランスジェンダー」という呼称が政治的正しさのもと広がりつつある。最近、NHK『バリバラ』で、これまで「オネエ・ニューハーフタレント」という看板を背負っていたはずのはるな愛の説明に、いつの間にか政治的に正しくクリーンな「トランスジェンダー」が冠されるようになっていた。しかし、果たしてどれだけの人がこの呼称が生まれた背景や、備えられた意味を知っているだろうか?
ほんの十数年ほど前に「性同一性障害」という医療疾患名が知られるまでは、「ニューハーフ」「オカマ」と呼ばれる人々がテレビに出るばかりで、性別に違和感を持って移行した/したいと考えるもの(トランスジェンダー)と同性に性的欲求や恋愛感情を抱くもの(ホモセクシュアル:ゲイ、レズビアン)のちがいが語られることなどなかった。
しかし、これまでも、今現在も、その困難や差別されている現状が知られず、一般社会に包摂されることも寄り添われることもなく「オカマ」「オネエ」の看板を背負わざるをえないトランス女性が存在する。いまだに多くの人々にとって、性的マイノリティというと、イコール新宿二丁目に飲みに行く、水商売や風俗で働いている、というイメージが強いようで、初対面であっても「どこの店で働いているの?」「二丁目に行ったことがあるよ」といったことばをいきなり投げかけられるという話も聞く。
『タンジェリン』のシンディやアレクサンドラは痛快で、活き活きしていて楽しそうだ。彼女たちのように、日本で言うオカマ、オネエキャラといった在り方が、好きだ、素だ、という場合もあるだろうけど、そういう生き方しか知らない場合もあるかもしれない。「わいせつなことばを平気で吐き」、「男とあらばベタベタと触りたがり」、「女より女らしい元男」といったメディアが作り上げたイメージを期待され、現実はそうではなくても、人間関係が重くなることを忌避して、しょうがなく引き受けたり、一般社会から遠ざかるトランス女性も少なくはないだろう。シンディやアレクサンドラらが置かれている現実には、そういった偏見や社会的背景が横たわっているのかもしれない。
日本で垣間見た『タンジェリン』の世界
シンディとアレクサンドラを演じるのはキタナ・キキ・ロドリゲスとマイヤ・テイラーで、ふたりともMtFトランスジェンダーの当事者である。監督のショーン・ベイカーが新作のリサーチ中にLGBTQ(Qは多様な性的マイノリティを包括する用語「クィア」の頭文字)センターでテイラーと出会い、本作の企画がはじまったという。
トランスジェンダーに対する嫌悪を意味する「トランスフォビア」ということばがある。アメリカでは特に、セックスワーカーのトランス女性が差別、ヘイトスピーチ、暴力といったトランスフォビアに晒されやすい。2014年にテリー・オニールが「ハフィントンポスト」に寄稿したトランスフォビアの実態を伝える記事があるが、こうした状況は現在も引き続いている。性的マイノリティを購買層とする「アドボケイト」誌によると、2016年のうち11月までに26人のトランスジェンダーが殺され、その多くが有色人種だという。
『タンジェリン』のシンディとアレクサンドラも、有色人種のトランス女性である。加えて彼女らは、貧困であり、教育も受けていないであろうセックスワーカーということも考慮すると、二重どころか三重も四重にもマイノリティだと言える。娼婦と言ってもストリートで商売をする、いわゆる「立ちんぼ」で、だからシンディはある場面で暴力に晒される。またドラッグや大麻などが身近なものと描かれているが、これは彼女たちの現実が、そういったものが必要なほどたいへんだからだと見ることもできそうだ。実際、性暴力の被害にあったり経済的困窮にある女性が、依存症患者になるケースは少なくない。だからこそ彼女らの連帯が際立つのだけど、厳しい状況下にあると見れば、「美しい友情物語」だけではすませられない。
わたしは2010年の9月から半年、新宿の歌舞伎町にある「女装・ニューハーフ」を売りにしたショーパブに勤めたことがある。当時この店は某民放テレビ局のバラエティ番組に取り上げられることも多かったため、にぎわっていた。辞めた理由は、給料があまりにも安く、深夜にお酒を飲むという身体への負担も大きかったし、バラエティ色を求められる接客に向いていないとかんじたからだ。キャスト同士が指名を取り合い、飲まない新人に焼酎やビールの一気飲みを強要する様子もまま見られたし、運営するのはヘテロセクシュアル(異性愛)の男性たちで、オープン前の掃除もやらされる環境にも憤った。
それでほとんどのキャストは最低時給1000円で働き、指名客が取れないと終電後の深夜1時や2時に仕事を切り上げさせられる日も少なくなく、そうすると一日6000〜7000円の稼ぎ程度で、つまり営業日をフルで働いても月収20万にも満たない。加えて、キャバクラのように半月ごとに指名、同伴といったノルマが課せられ、ペナルティで懲罰金が取られていく。さらに東日本大震災の際、この店はキャストのクビを切りノルマを課す一方で、被災した人々へ就労支援をするという対外的にクリーンなキャンペーンを行なっていた。なんのことはない、慢性的に人手が足りていなかったにすぎない。
ではそんなところで働かなければいいではないか、と言えるかもしれない。しかし、多くのキャストは椿姫彩菜や佐藤かよのように一般社会に溶け込むことが可能な容姿ではなく、他に行き場がないと、すがるように水商売の世界に流れてきた者もいる。
わたしの見てきた、このような日本のあるトランス女性コミュニティの様子と、『タンジェリン』のシンディやアレクサンドラが立ちんぼをして日銭を稼ぐ様子が重なって見えた。もちろん水商売や風俗が楽しい、合っているというトランス女性もいて当然で、そういう人たちを貶める気はない。けれど、「できればふつうに働きたい」と一般企業への就職を望む者も少なくはなく、そういった人々が社会に溶け込めない現状も無視できない。
多様なトランスジェンダーの尊厳の行方
ただし、一般企業への就職や高学歴を得ることがある種の「上がり」とされ、そうではない人々とのあいだで優劣が付けられたり、トランス女性間で分断が起きるような事態は避けたい。いっしょにされたくないと、「女装」を見下すトランス女性もいる。「オカマ」「オネエ」「ニューハーフ」は差別語で「トランスジェンダー」と呼ぶのが正しいといった、表面的な変化が差別の解消とされるのだとしたら、現実はなにひとつ変わらない。本作の字幕では、シンディらのことば遣いが「〜だわ」「〜なのよ」といったオネエことばを当てられていたが、これは日本の状況に則して考えても適当だとおもう(もちろんそういったことば遣いの人々ばかりではない)。彼女らのように粗雑な物言いをしたり、学がなかったり、セックスワークに従事していても差別されるべきではないし、そういった在り方が否定されるのもおかしい。
こうした現実において『タンジェリン』がアメリカの映画界において数々の賞レースで注目されたことは、喜ばしいとも言えるだろう。実際、本作は映画として優れており、「秘密と嘘」をめぐるドラマとして傑作に仕上がっている。構成はよく練られているし、色彩や音楽に圧倒される。
トランス女性というマイノリティだけでなく、ロサンゼルスに多く住むというアルメニア人も登場し、アメリカの多様性をとらえている。ペニスのついたトランス女性に性的欲求を抱く男性(トラニーチェイサー)も登場するが、これは日本においても「カマ好き」といった俗語で当事者間で揶揄されることがある存在だ。監督のベイカーは、流行に乗って人権問題や政治的イシューにまつわる作品とするようなまねはせず、あくまでもセックスワークに従事するトランス女性を隣人としてとらえ、そこに生きるひとりの人間として描く。だから罵詈雑言があふれるような日常に呆れることがあっても、かわいい側面もきちんと観客に伝わってくる。
しかしトランス女性の現実は前途洋々とは言えない。マイヤ・テイラーは本作でインディペンデント・スピリット賞の助演女優賞をトランスジェンダーとしてはじめて受賞したが、「Daily VICE」でのインタビューで、「トランスジェンダー俳優」という箱にくくられることへの違和感を吐露しているように、偏見は存在する。
ドナルド・トランプ氏がアメリカの大統領に就任した翌日、「女性のワシントン行進」(Women’s March in Washington)という抗議デモが行われた。その際にトランス女性のアクティビスト、ジャネット・モックが登壇してスピーチを披露し、セックスワーカーの安全も訴えていた。彼女自身、性別適合手術を受けるために、十代の頃にセックスワーカーとしてお金を稼いでいたという。モックも『タンジェリン』のシンディやアレクサンドラと同じ立場だった。彼女はニューヨーク大学で修士を取得し、ジャーナリストとして尊敬されているが、そうではない、低学歴で品行方正ではなくても、トランス女性であっても、尊厳と安全も守られなければならないと、本作を観て改めて実感した。
(鈴木みのり)
『タンジェリン』 2017年1月28日(土)より 渋谷 シアター・イメージフォーラム他、全国順次ロードショー
※初日13:15と15:15の回は上映後トークショーあり。
ゲスト:クリス・バーゴッチ(共同脚本家)、ミッキー・オハガン(ダイナ役、女優)
監督/共同脚本/共同撮影/編集:ショーン・ベイカー 共同脚本:クリス・バーゴッチ
出演:キタナ・キキ・ロドリゲス、マイヤ・テイラー、カレン・カラグリアン、ミッキー・オヘイガン、アラ・トゥマニアン、ジェームズ・ランソン配給・宣伝:ミッドシップ
2015年/アメリカ/英語・アルメニア語/88分/カラー/シネスコ/原題:Tangerine