性別の枠をゆるめるために
友人でトランスジェンダーのShiekoさんは、こんな作品を書いている。自分が女であるという、ある人間にとっては極めて基本的な事実を他の人に認めてもらうためのハードルがとても高いこと。「女の枠組み」がとても狭いこと。だれかにジャッジされないと、女として認められないこと――。
そもそも、こんな狭い枠にハマれる女性がどこにいるんだろう。そう思うと、ちょっとコミカルでもある。性同一性障害とかトランスジェンダーだとかいうネーミングは、ときに人間を「私たち」と「あなたたち」のどちらかに分類してしまう。この種類のネーミングとは、一種の壁のようなものだ。ネーミングの壁があると、多数派が少数派を理解するかどうか、ということだけに焦点が当てられがちだが、大切なことは必ずしもそうではないと思う。
トランスジェンダーの性別の悩みとは、一般の人たちが感じていることと地続きの部分も多い。先にあげた少女漫画雑誌の「りぼん」付録を小学校になぜ持っていってはいけなかったのか、という話もそうだ。男らしさや女らしさの押し付けに苦しんだり、なぜ自分の思うように振る舞ってはいけないのだろうと悔しく思ったりした経験は、だれにだって一つや二つあるだろう。「私たち」と「あなたたち」に分けることで見落としてしまうことがある。
小さな頃に好きなおもちゃを買ってもらえなかった大人たちは、「トランスジェンダーの話」なんてネーミングの壁を超えて、自分の子どもたちの世代が、どうしたら望むおもちゃで遊べるようになるのか一緒に考えてほしい。男らしくするように言われて窮屈だったり、女子力が低いと笑われて不快に思った経験のある人達は、ジェンダー問題についての立派な当事者だ。アメリカのTVドラマ『トランスペアレント』には、乳がんで乳房を失った女性と、トランスジェンダーの女性(生物学的には男性)のふたりのベッドシーンがある。下着を取るかどうかという話をして、前者は裸になり、後者はブラジャーをつけたままがよいと言った。ちがいはあっても乳房のない女性同士であり、対等な描き方が素敵だった。
すべての差別・抑圧の問題は、おそらく「多数派と少数派の闘い」ではない。フェミニズム運動では、しばしば性差別の問題は「女VS男」の闘いだと誤解されてきたが、実際のところ、女性だって男性と同じくらい性差別的で抑圧的になりうることも指摘されている。性差別に反対する女性の口から「草食男子は情けない」という発言がでることもあるし、男性に対するセクハラが今の日本では野放しになっているのも気になる。トランスジェンダーだからといって、トランスジェンダーに対する偏見や差別意識を持っていないとは限らないし、黒人だからといって人種差別的でないとは限らない。かつて黒人解放運動のカリスマだったスティーブ・ビコはこう言った。「おれたちを抑圧してくるやつらの一番の武器は、おれたちの自己嫌悪なんだ」。黒人はださい、かっこわるい、頭がわるいと言われたら、自分の心の中でも浮かんだら、こう言いかえせ。ブラック・イズ・ビューティフル。黒は美しい。
だれの心の中にも性別によって人を差別し、抑圧する部分がある。それは社会生活を送る中で染み付いてしまったもので、みんなの課題だ。ジェンダーの問題は、だれもが当事者で、考えるところのある部分だと思う。勇気も感動もいらないから、小学生が好きな漫画の付録をフツーに学校に持っていける社会を作りたい。そろそろ性同一性障害という疾患モデルではなく、「私たち」「あの人たち」という壁を築くのでもなく、日本社会における性別の枠をゆるめるためにどうしたらよいかの議論を広めませんか。
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