精神論を振りかざし電通の過重労働を擁護、自殺した娘の母をバッシングする評論家の暴力

【この記事のキーワード】

「なぜこの人は、娘の死を社会問題などという下らないものに換算しようとするのか」

小川榮太郎(『月刊HANADA』2017年3月号/飛鳥新社)

 小川は、電通という大きな組織で高給料の会社だからここまで話題になったのであって、もしも下請けの会社だったら社会問題にはならなかったはず、との推察を投じるが、納得できるはずがない。「その場合、今回の東大卒の可愛らしい女性の自殺のように、社会問題になるだろうか」と記す様に、書き手の偏見がしっかり滲む。大企業の労働者であろうとも、零細企業の労働者であろうとも、あるいはフリーランスの労働者であろうとも、強権に屈する形で死を選ばざるをえない環境に置かれていたのであれば、しっかり検証し改善されなければならない。

 大きな会社に対抗するように母親という個人が声を挙げることは容易いものではない。しかし、その行為すら小川の理解では「死を利用して、日本の労働慣習を脅し上げるなど、見当違いも甚だしい。ところが残念なことに、その見当違いをよりによって自殺した女性の母親がしている」「なぜこの人は、娘の死を社会問題などという下らないものに換算しようとするのか」となる。自身の父が昨年に亡くなった事を挙げ、自分は父親を静かに送り出したが、自殺した彼女の死も「死を社会的な値段になど還元せずに、自分の胸のなかだけで大切にし続けてやらねばならないのではないか」と続けば、その神経を疑いたくなる。

 事件についての議論がひとしきり出揃った後に、こういった精神論が再燃する。「週刊新潮」は1月12日号で「残業を絶対悪にした『過労自殺』 後始末の違和感」と題し、「何か彼女に特段の事情でもあったのではないか」との電通関係者の声を紹介、「母親との濃密な関係」「彼氏の存在」などの「複合的な要因が隠されていた」と書くことで、当人や母親への目線を再度揺さぶろうとした。

 小川は「この程度のことを企業犯罪呼ばわりされて大会社の社長が引責していたら、総理大臣から会社の社長まで、責任ある立場の人間は毎日のように引責辞任しなければならなくなる」と書く。少しも「この程度」とは思わない。このような事案が生じれば、上長が責任を問われるのは当然である。もしも、どうしてもその違和感が消えないのであれば、母親を吊るし上げる前に、辞任を決めた電通側に「そんなことしなくていい」と申し立てるべきだろう。最も痛切な声を捕まえて、「私はこの事件をよくは知らない。いまも、実はあまり詳しくは知らずにこれを書いている」くせに、それってどうなの、と潰しにかかるのは、単なる暴力に思える。

(武田砂鉄)

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