『夫のちんぽが入らない』は「試合」ではなく「壁打ち」である

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〈夫のちんぽが入らない女性・「私」=こだま〉ではなく、〈夫のちんぽが入らない「私」を書いた作家・こだま〉

 ですが「夫のちんぽが入らない」問題は、小説の中で「解決」されません。何か具体的な対処法が示されるということもない。「私」も夫も相手以外の人間とならば「入る」のに、夫婦でセックスをしようとするとどうしても入らない、その理由さえも分からないままです。

 きっと、この問題に対する「まっとうな」答えは「病院に行けばいいのに」なのでしょう。小説のなかでも、「私」は母親から「結婚して何年も経つのに子どもができないのはおかしい。一度病院で診てもらいなさい」という言葉をかけられています。しかしそうした「まっとうさ」こそが「私」を追い詰めるものであるというのは、小説を読めば分かるはずです。さらに、作者のこだまさんと詩人・文月悠光さんとの対談で語られているように、ちんぽが「入らない」ことは〈大人の社会に「入れない」、世間で「これが幸せ」とされる家族の形に「入れない」〉〈級友の輪、生徒の心、妊娠や育児の話……とあらゆる場に「入れない」〉というところに繋がっていきます。つまり、「入らない」という言葉が、小説の中で事実を示す以上の豊かな広がりを持っているのです。小説には、言葉に事実を、そして現実を超える意味を持たせる力があります。もし原因が「膣中隔」や「処女膜強靭症」などと具体的な「現実の言葉」で示されていたら、この小説はまったく別のものになってしまうでしょう。

 もちろん、こうしたコメントを通して、自身の性器の異常に気がついたり、向き合おうとしたりする読者は少なからずいると思います。「何だか分からないけど頭がくらくらする」というときに、「風邪ですね」と他者から定義づけされることは人を安心させますし、「解決策」として有効です。しかし作者がブログ内で語っているように、また単行本の帯にも「私小説」と銘打たれているように、『夫のちんぽが入らない』は、「解決できない」ことを描いた「小説」なのです。

 おそらく、実話を元にしたこの小説を読むにあたり、「私」と作者のこだまさんを完全に切り離して考えるのは、なかなかに難しいことだと思います。どうしても「夫のちんぽが入らない女性」が書いた体験記、あるいは闘病記のように読めてしまう。その受け取り方を否定するつもりはありません。ですがこの文章が「小説」である以上、「どういう人が書いているのか」あるいは「何が描かれているのか」ということだけではなく、「どのように描かれているのか」ということにも、もっと注目してみてもいいのではないでしょうか。

 たとえばこの本が体験記や闘病記であれば、先に挙げた「膣中隔」や「処女膜強靭症」といった「現実の病」が大きな意味を持つでしょう。しかしそれと同時に、『夫のちんぽが入らない』は、こだまというひとりの女性の人生より外には、出ることができなくなります。「入らない」という問題も、具体的な病名以上の意味を持たなくなる。ですが、小説はそれが現実を元にして書かれたものであっても、現実ではありません。現実の枠から脱しうる広がりを持っているからこそ、「入らない」問題はあらゆる輪に「入れない」人びとの物語たりえるのですし、「私」は〈こだま〉個人ではない、あらゆる人間になることができる。だからこそ、この小説を読むときには、作者のことを〈夫のちんぽが入らない女性・「私」=こだま〉ではなく、〈夫のちんぽが入らないこと、そして入らない「私」を書いた作家・こだま〉として見てみるのも、大切なことなのだと思います。

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