『夫のちんぽが入らない』は「試合」ではなく「壁打ち」である

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この小説は「試合」ではなく「壁打ち」である

 この小説は、とくに劇的な終わり方をするわけではありません。細い糸がすうーっと伸びるようにして閉じられます。夫のちんぽは入らないままだし、「私」の内向きな性格が、すごく前向きなものになるということもない。前を向いて問題と戦うのではなく、誰を負かそうともせず、逃れたり、押し黙ったり、やりすごしたりすることで日々を暮らしている。

子を産み、育てることはきっと素晴らしいことなのでしょう。経験した人たちが口を揃えて言うのだから、たぶんそうに違いありません。でも、私たちは目の前の人がさんざん考え、悩み抜いた末に出した決断を、そう生きようとした決意を、それは違うよなんて軽々しく言いたくはないのです。人に見せていない部分の、育ちや背景全部ひっくるめて、その人の現在があるのだから。それがわかっただけでも、私は生きてきた価値があったと思うのです。そういうことを面と向かって本当は言いたいんです。言いたかったんです。母にも、子育てをしきりに勧めてくるあなたのような人にも。(『夫のちんぽが入らない』)

 この小説は、試合ではありません。壁打ちです。作者は周囲の人びととも、読者とも戦わない。ただひとりで黙々と壁打ちをしている姿は、爽快感とは無縁です。傍から見ていると地味で孤独で、痛々しくておかしい。試合終了のホイッスルが高らかに鳴り響くこともありません。壁打ちの終わりは尻すぼみでどこか間抜けです。そんな練習方法を続けていたって上手くならない。人と対話しなきゃ。どうして仲間と一丸になって戦おうとしないんだ。相手に勝ちたくないのか。諦めたらそこで試合終了だよ。――そうした言葉にも、作者は立ち向かいません。ただひとり、血の滲む手足で壁にボールを打ち続けるのです。この小説を身近なものとして、そして救いとして感じる人は、きっと社会の中で、同じように孤独な壁打ちを続けてきた人でしょう。ふっと隣を向くと、なまなましい壁打ちの跡がある。ただそれだけだけど、その痕跡を美しいと思う人。ひとりで壁を打ち続けていたのは自分だけではなかったのだと思う人。そういう人びとのために、『夫のちんぽが入らない』は、「小説」としてこの世に送り出されたのだと思います。
餅井アンナ

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