非人間的な感覚のある自分はどう生きていけばいいのか
まく 僕は「初愛」はわからないけど、ナルシストとして『宇多田ヒカル論』の議論は分かる気がしたんです。人はみんな孤独で、違う存在だから、必ず距離がある。その距離の中に、大事なものが宿る。まずは『DISTANCE』のアルバムのところで、そんな説明がありましたよね?
杉田 そうですね。distanceの中にかえって愛が宿ると。
まく ええ。前回の対談で取り上げた二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)では、他人を愛するには自分を愛すことからはじめよう、と書かれていました。そのために、自分がひとりでいても寂しくない【居場所】を持とう、と言っていたわけで。
『宇多田ヒカル論』の『DISTANCE』について書いている第二章を読みながら、ひとりで立ち続けることの充実感を、自分だけでなく相手も感じていくことを祈る、ということが愛なのかもしれない、と思ったんですね。独りになることを分け合おうとする、それが愛なのではないか、と。人は本来的に独りで、ときにぼんやりと「孤立」に苦しんでしまう。ひとりでいても寂しくない場所を手に入れることができて、そのときはじめて、そういう自分を愛している、ということであるならば。他者が、それをできるようになることを望むことが、他者を愛するということなんだろうな、と。そんな風に腑に落ちたんです。
杉田 なるほど。まくさんのいう「ナルシスト」とは「愛したいが愛せない」というアパシー状態(無気力)のことでしたよね。だからこそ純愛というロマンを希求してしまうと。その場合の「ナルシスト」とは、いわゆるアセクシュアル(無性愛)とはまた違う話ですよね?
まく はい。僕には性欲があるし、性愛で人とつながりたいと思う気持ちもあります。でも、目の前の人とは、そうできない(気がする)。望んではいるけど、でも愛を感じられない男、そんな無感覚状態な感じですね。
杉田 「愛されない苦しみ」じゃなくって、「他者を愛せない」というアパシー状態を「ナルシスト」と呼んでいるわけですね。それは世間一般のナルシストの定義とは違うんだろうね。愛せないけど、性愛によって寂しさを埋めたいという感じはあると。ふむ。
そういうアパシー=ナルシストの状態から、『Fantome』以前の宇多田さんの歌にシンパシーを覚えるとすると、それはどの辺なんですかね? ある意味で宇多田さんの世界って、割と豊富な恋愛経験がデフォルトな感じもあるから、息苦しかったりはしないのかな。
まく そうですねえ。僕が引き寄せられたのは、「非情な感じ」ですね。本の最初の方の、宇多田さんの生い立ちのところで「感情を消していった」と書かれていた部分が、まずは気になって。宇多田さんの生い立ちと僕のそれとが重なるわけでは全くないのですが、無感覚な感じに何となく悩んでいた僕としては、そこに目を持っていかれたんです。そして『ULTLABLUE』に入っている「BLUE」という曲の詩から、宇多田さんの非人間的な感じを読み取っていた箇所がありましたよね。感情が何だかよく分からない感じ、と言いますか。そういう非人間的な感じが自分にもあるような気もして、そんな自分がどう生きていけば良いのか、と。それを知りたくて、ぐいぐい最後まで読んでいったっていうのが、僕の『宇多田ヒカル論』の読書体験でしたね。
結局、『宇多田ヒカル論』は「男性的」?
杉田 話を元に戻しますが、やっぱり僕の宇多田論ってロマンティックすぎるんでしょうか? 『長渕剛論』(毎日新聞出版)は、対象が長渕さんだから、僕の批評スタンスも「男性から男性への憑依」というモードになっていたんですね。今回の宇多田論は、それとはまったく批評方法が異なる。憑依はしていないと思うんです。ある種の「距離」はあると思う。しかし、その「距離」の取り方自体に僕の男性的な歪みはあるのかもしれないと思っていて。
まく うーむ……どうなんでしょうか……。
杉田 あんまりそういう感じはしなかった?
まく ……何か、ロマンティックなものを求めてしまう、熱いものをどうしても求めてしまう。それは、杉田さんの底に確実にありますよね。そういうものを求めてしまう「過剰なもの」とどう共に生きるかという模索が今回の『宇多田ヒカル論』でもなされていたように思いますけど……。こういう論じ方自体がそもそもダメなのかもしれないということですか?
それと、こういう議論が「男性的」と言うことでしょうか? これを「男性的」と言ってしまって良いものなのかどうか……。ちょっといまの僕にはわかりません……。いやー、このへんは、すっげーもやもやします……。
杉田 たとえば長渕論は、男性の立場から男性としての長渕さんの葛藤を論じたものだと思うんですね。それは『非モテの品格』(集英社)の議論と連続していると思う。ただ、宇多田論はあまり自分の中の「男性性」を意識せずに書けたんです。実際に、遅筆の僕としては珍しくスピーディに、するっと書けた。それはある種の「普遍性」に軸を置いているからなのか、それともそれ自体にどこかブラインドがあるのか。僕自身もちょっともやもやしているんですけどね。
まく ……うん、僕はまず率直に振り返って、『宇多田ヒカル論』が男性的なロマンティシズムに回収した議論だとは思わなかったですね。だから、この論点自体も、言われるまで僕は思い浮かばなかったです。この対談のテーマの関係で、僕は『宇多田ヒカル論』を読みながら男性性と絡めて考えたり、僕自身が自分の文脈で捉えて考えたりはしました。でも、そんな僕でさえも『宇多田ヒカル論』を読んで「この議論は男性性に引き付けすぎているな」とは思いませんでした。
杉田 そうですか。
まく 『Fantome』について書かれた第六章の後半が、一読してもなかなか理解し難い内容だな、とは思いました。だから、じっくり読んだ。そしたら超面白かった。どこが面白かったかは、今日の対談でお話しした内容につながります。そんな感じでした。
杉田 まあ、その辺は僕自身が反省的に考えてもダメで(それ自体が男性的な反省モードかもしれなくて)。実際に女性や様々なセクシュアリティの人々からの感想を聞いてみたいな、という感じですね。『宮崎駿論』『長渕剛論』『非モテの品格』という連続性の中で書いた面もあるので、男性学やメンズリブのテーマを含んではいると思う。ただ、作者である僕自身が『宇多田ヒカル論』における男性問題をちゃんと自覚できていない。誰か、批評して下さい!
まく (笑)。確かに、色んな人の感想は聞いてみたいですねえ。男性以外の性自認の人で、ジェンダーやセクシュリティの議論を深く考えてきた人が『宇多田ヒカル論』を読んだときの感想をぜひ聞いてみたい。そして僕的には、「自分は人を愛せるのか……?」とぼんやり悩んでいるような人に読んでもらって、その読んだ感想を聴いてみたいです。もちろんこの本は、忘れられない大切な恋愛をしたことのある人にとってド真ん中の本なので、そういう人たちにはぜひ、広く手に取ってもらえたら良いなと思いましたね。