批判炎上を「ネットのせい」にする広告の終焉。双方向性を重視し、ユーザーの想像の一歩上をいく発想を提供するスペシャリストが生き残る。

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ナガコ再始動

 テレビCMやWEBのキャンペーン動画に対する批判、抗議の声が、インターネットを中心に噴出する昨今。ユーザーは100人いれば100通りの感想を抱く。ユーザーたちの私見には、単なる不平不満や個人的な嫌悪感情から、男尊女卑、差別意識といった現代の社会問題に至るまで、実に様々な着眼点が入り乱れている。

 それぞれに異なる意見への賛否両論も派生する最中、「今は何をやってもネットで文句を言われる時代だから、広告を作るのも難儀だ」とぼやく制作当時者の声も聞かれるが、その“非はネットにあり、我にはなし”とでも言いたげな態度が、まずは嫌われる原因の1つである。以下、広告が庶民に嫌われる理由をいくつか書き出してみたい。

(1)文句は昔からある 

 広告と限らず、公衆の面前に現れるヒト・コト・モノのすべては、公衆の反応に晒されることを前提に出現する。それらを認知した公衆は、会話の定番トピックスとして、個々に多様な賛否両論を述べる。つまり、ネット以前に「何をやっても文句を言われていた」わけだが、好感度調査や正式な抗議には現れない“一般人の普通の感想”を一律に確認する場、機会がかつてはなかった。それが今、可視化されてようやく制作関係者の認知に至り、慌てているようならば、井の中の蛙、大海を知らず。浮世離れしているうえに、反応が遅い。

(2)広告という業態

 そもそも広告は、クライアント、広告代理店、制作者、出演者等、関係各位のコンセンサスを重視する“内向き”の業界である。その“井の中”は、大海の傾向やトレンドを示すデータは重要視するが、庶民の“感情”まで気にしなくとも業務に支障を来さない。とはいえ、広告を見て商品を購買するのは他ならぬ庶民である。よって、庶民感情を軽視しても成立する広告の仕組み自体が、胡散臭い。軽視して良しとあしらう態度が傲慢だと煙たがられることは自然である。

(3)広告の都合

 庶民感情はスルーしても、同感情が集積されるインターネット上の文句は見過ごせない。なぜか。クライアント企業や大手代理店から一般消費者まで、誰もが分け隔てなく同じ情報を目視できるからだ。本来、不特定多数の一般消費者の購買意欲をそそるために、より効果的に情報をコントロールすることが広告屋の仕事である。が、インターネットの反応は操作できない。クライアントにエンドユーザーの“リアルな本音”が丸見えになる状況も都合が悪い。よって「難儀する」わけだが、そもそも一般市民の感想を「コントロールできる・できない」の目線で捕らえていること自体、図々しい。かえって「ネットで文句を言われなければ、何をやってもいいとでも思っているのか」と揚げ足を取られるのみだ。

(4)「ネットのせい」という言い訳

 “井の中”には、庶民が窺い知れない利権や守秘義務等の大人の事情が凝縮されている。その是非はさておき。特権的とも言える“内向き”な業態には、“外向き”の目に晒される免疫がない。要するに、叩かれ慣れていないので、可視化された賛否両論に過剰に怯える傾向がある。もっとも、インターネットの発言には、匿名投稿による誹謗中傷や嫌がらせ、対人会話には出現しない剥き出しの悪意も紛れ込む。悪意が悪意を呼ぶ“叩きの連鎖”も生じる。しかし、実社会もインターネットも、善悪と表裏と真偽の玉石混淆である点は変わりない。日常のコミュニケーションツールであるSNSには、単なる「普通の感想」も「内容そのものへの正当な抗議」も反映されている。そのすべてを “文句”と捉えたうえで、総じて「非は、ネット独特のネガティブかつ攻撃的な過剰反応にあり、我にあらず」と責任逃れしようものなら、不信感はますます募る。

(5)謝罪し、削除し、反省しない

 現在は、市民の不評や抗議を受けて、「まさかそこまで嫌われるとは想定していなかった」とばかりに配慮不足を謝罪し、放映・公開を打ち切るケースが続いている。怒られてようやく「え? これダメなの?」と気付く、幼児のごとくの純朴さを露呈する多くの広告が痛々しい。ちょっと考えれば「ダメ」とわかるはずだが、なぜかそうした広告は繰り返し世に放たれる。「クレームの方が過剰で不当ではないか」と議論され、擁護の声があがる案件さえも、その是非には触れぬまま、「不快にさせて申し訳ない」との決まり文句と共に姿を消す。インターネットの反応を前に、広告制作者も庶民も、良くも悪くも過敏になる。その時代性を制作者サイドが考慮しきれない理由については、(1)に戻る。

 以上、「ネットで文句を言われなかった頃は難儀しなかった広告」が、今だからこそ庶民に嫌われる点について書き出してみた。現在は、大手広告代理店へのバッシングも相次ぐが、その市民感情の一部には、エリート意識や特権性への嫌悪感情も混在している。折しも、政治や商品製造にて、その工程を明らかにする透明性が重要視される昨今。守秘義務等の大人の事情で情報をオープン化できない広告業界の在り方を“不透明”と捉え、不信に思う市民もいると推測する。

双方向性を無視していた時代

 かく言う当方も一般市民だが、広告の現場を取材する記者としての活動歴が長いため、制作工程やその渦中に生じる大人の事情の数々をよく知っている。とはいえ、一言“広告”といっても、ビルボードやテレビやグラフィックデザインなど、様々な媒体がある中で、現場にまで押し掛けて取材したのは“映像”のみだ。正確には、取材対象者は“映像制作者”であり、彼らが手がける様々な種の仕事(CM、MV、WEBキャンペーン等)や作品(映画、ショートフィルム、アニメーション等)に張り付いていた。

 当方は、そもそも映像が好きで、美大の映像学科を卒業後、映像制作会社に勤務し、映像ライターになった経歴をもつ。記者になろうと思った動機の1つが、「誰が、何をしているのか」、一般的にはさっぱりわからないという状況の改善である。よって、それを明示し、より多くの人々に素晴らしい制作者の情報を認知させようと企てた。その活動は同時に、「誰が、何をしているのか」が一般の目には晒されないからこそ自分の仕事に責任をもたない制作当事者への批判でもあった。

 広告映像業は、街場の多様な意見がどうあろうとも、クライアントや依頼主の評価を獲得しさえすれば成立する仕事である。無論、商品の購買者である市民の反応は、その売り上げや企業イメージの評判に影響する。より良い影響を引き出す役割を担うコンテンツが広告映像である。が、商品が爆発的に売れたからといって制作者に利益が還元されることはない。依頼主に成果物を納品すれば仕事は終わる。悪評が立ったとしても、報酬は減額されない。

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