批判炎上を「ネットのせい」にする広告の終焉。双方向性を重視し、ユーザーの想像の一歩上をいく発想を提供するスペシャリストが生き残る。

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 悪評のみならず、エンドユーザーの多様な反応を窺い知る手段そのものがなかった時代。制作者にとって、仕事相手は庶民ではなく、あくまでもクライアントであると位置づける “内向き”な業界気質に対し、違和感を抱く制作当事者は多勢いた。

 膨大な時間と労力をかけて制作した成果物は、実際に多くの人々に歓迎されているのだろうか。クライアント企業の取締役を喜ばせる役割を果たしたとして、そのような太鼓持ち案件を、公共の電波に広告として放って良いものか。業界の慣習とは無関係のお茶の間のみなさまは、どん引きしているのではないだろうか。そうした“外向きの意識”をもつ映像制作者の一部は、クライアントの注文通りに納品して終わる従来の仕事の“一方向性”に疑問を抱いていた。そして、“双方向的”なコミュニケーションのエネルギーをもつインターネットの普及をきっかけに、ユーザーとの相互関係を成立させる仕事の方法論を模索し始めた。

 結果、ユーザーが参加して楽しめるインタラクティブな映像表現が台頭。コンテンツ制作のみならず、人々をつなぐ場所や時間を提供するコミュニケーションデザインや、体感の感動を伴うライブ映像、プロジェクションマッピングなど、“不特定多数の人々と喜びを共有する場作り”へと仕事の方向性をシフトする制作者が増加した。

 動画の再生回数やSNSでの拡散数など、話題性の獲得を数値で目視できるあたりも、人気の指針が不明瞭だった時代と比べて分かりやすい。見る者にとっても、一般的には「誰が、何を目的に、どのように制作しているのか」がさっぱり分からなかった広告のブラックボックス感が、制作関係者の投稿や当事者情報の提供によって和らぎ、人間同士の距離がぐっと近づいた感があった。

 折しも東日本大震災を通過した日本人は、地域社会とのつながりやコミュニケーションの有用性についての再考を促された。自分たちはこの社会のために、人々のために何ができるのか。生活に必要不可欠な衣食住とは違い、業界人による業界人のための業界広告映像など何の役にも立たない無用の長物ではないか。自分の仕事を懐疑した者が、自らとユーザーを隔てていた垣根を取り払い、人々のために能力を発揮しようと画策する。そんな“人に寄り添う”クリエイターとしての矜持の開花を、当方は間近で目撃し続けた。

前時代的な広告映像

 とはいえ、インターネットの“言いたい放題”については、玉石混淆だけに、手放しには許容できない時もある。特に、クリエイティビティの本質を自らに問う映像制作者というよりも、冒頭で記したような閉じた広告業界体質の持ち主は、インターネットでの(自分にとって顧客でもなんでもない一般人からの)「言いたい放題」に困惑する。

 公の場に出現する成果物の制作当事者であるにも関わらず、成果物への批判的な反応が公の場に出現する現象に抵抗を感じるという論法は、今となっては虫が良い。無論、広告映像は、あくまでも広告。その権利所有者はクライアント企業である。守秘義務も生じる手前、クライアントへのホスピタリティや内々の総意を重視して然るべきだ。その“内向きの仕組み”が、双方向的なオープンコミュニケーションの時代性にそぐわない。

 “外向き”かつ“双方向的”なコミュニケーションの場であるインターネットにおいて、時代性や外界の反応を軽視する“内向き”かつ“一方的”な広告は、その内容如何に問わず「コミュニケーション能力がない」という理由により、前時代的な印象をユーザーに与える。また、その場には個々に多様なジェンダー観や人生観、性意識が可視化されている。よって、登場人物の描き方が一方向に偏るCMが出現しようものなら、「そんな人間ばかりじゃない」「差別だ」「差別の刷り込みプロパガンダだ」との批判が殺到する。

 たとえば、20代の若い女性の“等身大”の社会人生活を描いたCMがことごとく炎上するのは、それらCMがどれも社会に蔓延する男尊女卑、ジェンダーの型、エイジズム、女性の自己肯定感情の欠落等、メディアが率先して喧伝し続けた前時代的な決めつけの女像のストーリーを、何の疑いもなく上書きしているからだ。「そんな女像ばかり」をCMが扱うのは、“内向きのコンセンサス”上、扱いやすいからだが、その目線の方向が、時代や社会、ひいては多様なユーザーへの影響を冷静に精査する思慮を曇らせる。

 目下、炎上リレーを引き継いでいるテレビCMといえば、小池栄子の演じる主婦が、自由に出来るお金が少ないから「安い電気にかえるか、稼ぎの少ない夫をかえるか」と言い放つ『ENEOSでんき』だろうか。そこそこ経済力がある家庭とお見受けするリビングにて、昼間に友人を招いて雑談し、満面の笑みで夫に嫌味を言う主婦が、“夫の収入の低さ”をフックにENEOSでんきの“お得感”を訴求する。その設定には「共働き家庭が半数を超える現代、専業主婦女性は現実味がない」「金銭のみを根拠に男性に寄生する女性ばかりじゃない」「冗談が古い」「“お得感”を推すために設定した広告の女性像と、実際に電気代を切り詰める必要性に駆られている主婦の実態がかけ離れている状況について、特に配慮する必要がないと思っている貴族が作った世間擦れ広告」との言いたい放題が寄せられている。男に寄生する女の冗談がまったく笑えないばかりか、放映の時間帯や頻度、映像クオリティ等、ENEOSでんきが大枚をはたいて成立させたであろう“お金”にまつわるCMの説得力のなさには大爆笑である。

 今、嫌われる広告映像とは、つまり、制作者自らが、現行の社会や人間との距離感を突き放し、公共の場での分断化をこの期に及んで促進する性質をもつ。“人に寄り添う”視点を不要と捉える広告映像が、“人を馬鹿にしている”という理由で不評を買う。要するに、コミュ障である。

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