映画版で省略されたもの——女と「居場所」
最後に、漫画版『この世界の片隅に』(双葉社)についても触れておきます。漫画版は少なくとも女性の生き方という問題については、映画版より複雑なメッセージを伝えるものとなっています。
その違いは主に、遊郭に生きる女性、白木りんの登場シーンが映画版では相当に削除されている事に由来します。
映画版では通りすがりですずに道を教えたり、すずの落描きに喜んだり、というシーンだけが印象に残るこの女性、漫画版ではヒロインの夫である周作が過去に通っていた遊女という設定となっているのです。しかも、真面目な周作は一時、彼女との結婚を考えていたらしいことまで示唆されています。
映画化するにあたりエピソードを整理するのは普通なので、尺の問題でりんのことは省かれたのかもしれません。だが、それにより映画版からはすずの女性としての葛藤が消えました。その分、義理の姪に当たる幼女の晴美(後に不発弾で死ぬ)と戯れる姿や、戦時の窮乏生活で家事を工夫する姿の印象が強く残ります。りんがいなくなることで、映画版のすずのイメージは「絵が好き」「家事を楽しむ」に集約され、「女」よりは「少女」と「母性」を行き来する存在になったのです。
映画でも言及はされる、すずの「居場所」の問題も、漫画版ではよりストレートでわかりやすいものになっています。夫の過去を知ったすずが、自分は居場所を見つけたと思ったが、誰かの「代用品」であったのかと思い悩む。更には夫の愛も疑わしい中、晴美が死に、婚家に留まる意義を見失っていく様子が克明に描かれているのです。
そんなすずに対し、「居場所」についてはっきりとした示唆を与えるのは二人の女性です。一方は義理の姉・徑子で、彼女は原爆投下の朝にすずを「すずさんの居場所はここでもええし、どこでもええ」と婚家にひきとめる役割を果たします。同じ台詞は映画版にもありましたが、そのあと「くだらん気兼ねはなしに自分で決め」と、自己決定を促す言葉で終わります。しかし漫画版では更にそのあとすずの髪を結いながら「あんたの世話や家事くらいどうもない。むしろ気がまぎれてええ」と述べ、右手が不自由な彼女を家族のように(または失った娘の晴美のように)世話することが心理的な救いにもなるという感情が示されるのです。
そしてもう一方が、大幅に削られたりんとのエピソードです。りんは、子どもがなかなか出来ず「実家に返されるかも」と悩むすずに対し、「実家に帰れるならよいではないか」「出産は母親を殺すこともあるので一方的によいものでもない」と、すずの価値観を相対化するような視点を示します。
また、りんは親に売られて遊女になった女性ですが、「売られてもそれなりに生きとる」といい、子どもを産めない女性の生き方のみならず、子どもを売る親のことも明るく肯定してみせます。そして、朗らかに「何かが足らんくらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせん」と宣言するのです(しかもこの時、すずはまだりんと夫の過去を知らないが、りんは気づいています)。同時に、そんな彼女たちは、社会の中でつまはじきにされ、病気になれば医者も呼ばれず死んでいく存在であることも描かれます。当時の遊女たちが置かれた現状がさり気なく伝わってくる名場面です。
漫画版におけるりんと周作のエピソードは、終戦時のすずの反応を解釈する際にも一つの伏線となっています。敗戦後の空に翻る太極旗に、すずは日本の敗北に喜ぶ朝鮮半島出身の人々の存在を認識するわけですが、漫画版においては、そこで自分たちも朝鮮の人々を「暴力で従えとった」こと、だから自分たちも「暴力に屈する」のだ、と理解した後、その事実を「知らんまま死にたかった」と言って泣き崩れるのです。
漫画版において他に「知らんでええこと」と表現されるのはりんと周作の過去です。そのため、「恋敵」りんの存在と朝鮮半島の問題は「目をそらされていた現実」という扱いにおいて重なってきます。また、作中ではっきりと語られることはないですが、彼女が軍港における遊女であったことも、慰安婦問題との関連性をほのめかす要素があります。憶測ですが、ここでも韜晦的な手法で何かが語られていると推測することは出来ます。
映画版と漫画版の違いは基本的に「女性」に関わる描写の厚みと考えてよいでしょう。原作のすずは不妊や夫の過去など「女」としての問題に直面するが、りんや義姉という女性達との対話のなかで「居場所」を見いだします。しかし映画では女性の問題や女同士の絆についての描写が省略され、周作という夫、およびその家族と関係を築いていく「嫁」としてのすずの物語が中心となっています。そのため、原作にはあった結婚や出産という「あたりまえ」を相対化する視点は消えてしまっています。
一方で、それでは、映画は駄目だけど原作は女性の友情が描けているからよい、と手放しに称賛したいのかというと、個人的には躊躇いがあります。というのも、二人の女性たちとすずの関係が単純に「女の友情」だけで語れないものにもみえるからです。まず、りんにとってすずは、育ちのよさゆえに結婚制度の枠組みに乗ることができて、自分を影の存在に追いやる女性です。他方、義姉にとってすずは(不慮の事故とは言え)自分の子どもを守れなかった女性です。つまり、すずにとって二人は、タイプこそ違うものの、どこか「後ろめたい」気持を与える女性たちなのです。
とりわけ、りんの立ち位置は微妙です。りんとすずとの関係性は利害関係を越えた女性同士の美しい対話のようにみえるのですが、りんを通じて、あまりにもものわかりのよい、包容力のある「社会的弱者」像が描かれているようにも感じるからです。先に述べたように、台詞の重なりのせいで、彼女が「知りたくなかった」日本の植民地問題の伏線のようにみえるため、余計にそう思ってしまうのかもしれませんが。
女性の地位の低さや、戦争という、すず自身にはどうしようもない状況が、いわばすずを無自覚な加害者あるいは特権階級のような位置に置いており、その「被害者」二人が、結果としてはすずを勇気づけるように「居場所」を語るという図式。それは物語としては美しいのですが、少しおとぎ話のようにも感じます。そしてちょっと居心地が悪い気持ちにもなる。いうなれば、加害や格差といった事柄に対して後ろめたい立場にある者が抱く、「知らないうちに足を踏んでいた人たちに許してもらいたい」という願いを描いているようにも感じてしまうからです。
その印象は、一方で「許される」立場にあったすずが、やはり別のところで「大らか」に強者、あるいは加害者を許してみせていることからも強化されます。すずは自分の才能を顧みない男性社会や、戦争を長引かせた国家に対しては怒りを向けません。それよりは感情を飲み込み、「普通」の日常に埋没していきます。
結局の所、女性同士の関係や境遇がフェミニスト的な繊細さをもって描かれながらも、「怒り」ではなく「許し」の物語に回収されているのです。漫画版においてもやはり「声高に主張する」ことへの抑圧があると感じます。
厳しい意見も書きましたが、『この世界の片隅に』は映画だけでなく漫画もあわせて読むことで、様々な考察に導かれる優れた作品です。映画版が日本アカデミー賞を受賞した現在、更なる議論がなされるとよいと思っています。
隠岐さや香
名古屋大学大学院経済学研究科教員。18世紀の科学思想史が専門でアニメ、映画も大好き。
Twitter: @okisayaka