連載

アメ車、男たちの絆、この惑星最後の美しき自由な魂~『バニシング・ポイント』

【この記事のキーワード】

ホモソーシャルとホモフォビア

 自由意志、そして腐女子の観点からみて非常に面白い『バニシング・ポイント』ですが、作品の中に見受けられる同性愛嫌悪(ホモフォビア)の問題が立ちはだかります。

 これだけ男同士の絆を強調し、伝統的な男らしさからズレた主人公を描いているにもかかわらず、この映画には非常にステレオタイプなゲイが登場します。コワルスキーが途中で出会う2人組のヒッチハイカーなのですが、テカテカした服に派手なメガネをかけ、わざとらしい話し方をするなよなよした男たちで、コワルスキーに銃をつきつけて強盗行為を働こうとします。コワルスキーが象徴的な意味で性暴力にさらされていることは既に指摘しましたが、このゲイたちは表情からしてなにか嫌らしいことを考えているようにも見えます。せっかく親切にした相手から性的なものも含めた暴力をふるわれそうになったコワルスキーが怒って2人をボコボコにしても、お客は全くかわいそうだとは思わず、当然の自衛だと思うだけです。今の感覚ではゲイをこんなに薄っぺらく極悪な性的脅威として扱うのは差別的すぎてちょっとあり得ないのですが、おそらく封切り時の観客は気持ちの悪いオカマがやられていい気味だったのでしょう。

 この同性愛差別描写はロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンが監督したハリウッドのセクシュアルマイノリティ描写に関するドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(The Celluloid Closet、1995)でもとりあげられています。ハリウッドのメジャーな映画としては初めてゲイとエイズを扱ったジョナサン・デミ監督作『フィラデルフィア』(Philadelphia、1993)で主人公を演じてアカデミー賞に輝いたトム・ハンクスが『バニシング・ポイント』について、アメリカ映画で初めて見たゲイキャラクターで、この時かなりネガティヴな先入観を持ったと述べています。『バニシング・ポイント』ではコワルスキー自身が伝統的な男性性から逸脱した人物なのに、より露骨に伝統的男っぽさに反逆する派手なゲイは悪役なのですね。

 この一見、唐突で不可解な展開を読み解くには、クィア批評の代表的な研究者であるイヴ・K・セジウィックの『男同士の絆-イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(上原早苗、亀澤美由紀訳、名古屋大学出版会、2001)がヒントを与えてくれます。本書でセジウィックは「ホモソーシャル」という概念を探求し、こう述べています。

「ホモソーシャル」という用語は(中略)同性間の社会的絆を表す。またこの用語は、明らかに「ホモセクシュアル」との類似を、しかし「ホモセクシュアル」との区別をも意図してつくられた新語である。実際この語は、「男同士の絆」を結ぶ行為を指すのに使用されているが、その行為の特徴は、私たちの社会と同じく強烈なホモフォビア、つまり同性愛に対する恐怖と嫌悪と言えるかもしれない(p. 2)。

 これに続いてセジウィックは、「ホモセクシュアル」は「男を愛する男」、「ホモソーシャル」は「男の利益を促進する男」の絆であると解説します(p. 4)。ホモソーシャルな場では男同士の連帯が重視されますが、ホモセクシュアルな関係は強く断罪され、ホモソーシャルとホモセクシュアルの連続性が否定されます。男の利益を促進しようとする男たちは、自分たちはホモセクシュアルではないということをアイデンティティの礎にすらしています。ホモセクシュアルであることは伝統的な男らしさから離れて女のようになること、道徳的に堕落することと結びつけられやすくなります。

 『バニシング・ポイント』においても、このホモソーシャルがホモセクシュアルを排撃する論理が働いていると考えてよいでしょう。伝統的な男らしさにはまれないコワルスキーと人種差別や障害者差別の対象になるスーパー・ソウルは、白人男性健常者社会からはつまはじきにされる男たちであり、互いを思う純粋な心で結びついています。しかしながらこの2人の絆はあくまでもホモソーシャルなものにとどまります。型破りなコワルスキーも、ホモセクシュアルであることだけは受け入れられないのです。コワルスキーとスーパー・ソウルがテレパシー的な会話をする場面が、このゲイキャラクターをボコボコにした場面の直後だというのは示唆的です。ホモセクシュアルの性的脅威から逃れたコワルスキーは、男性間のセックスが一切介在しないスーパー・ソウルとの心の絆に慰めを見いだすのです。邪悪なものというレッテルを貼られたホモセクシュアリティを排除することにより、コワルスキーとスーパー・ソウルは完全にスピリチュアルなものとしてのホモソーシャルな絆を確立できるのです。

 『バニシング・ポイント』はとても哲学的で、人生における自由意志という一生かけて考えるべき問題を深く探求していると思います。しかしながら、その普遍的なテーマの探求が同性愛者の観客に及んでいないというのは、時代の限界はあれ悲しいことだと思います。私はこの映画をこの後何度でも見たいと思うでしょうが、素晴らしい映画だと思うからこそ、欠点も忘れずにいたいと思います。

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