【第2回】トランス男子のフェミな日常「LGBTとフェミニズム」

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「フェミニストですか?」と聞かれたらそうだと答えるけれど、これまで、あまり積極的に名乗ったりすることはなかった。

理由のひとつは、フェミニズムは誤解されまくっているということだ。今の日本ではフェミニズムといえば、怒れる女たちの男叩き運動だと矮小化している人が多いし、良い場合でも、フェミニズムとは女たち「だけ」の運動なのだと理解されている。

私は10代のときにベル・フックスという超カッコいい黒人作家に出会った。彼女は「フェミニズムはみんなのもの」と言い切っていた。フェミニズムとは「ジェンダーによる差別や抑圧をなくそうとする運動のこと」なのだから、だれだって当事者だ。とうぜん男だってフェミニストになれる。彼女の書いているものを読んだとき、あ、そうなんだと思ってパッと明るくなった。

女だからといって性差別的でないとは限らない。この社会に生きているだれもが性別で人を決めつけるし、セクハラだってできる。それに「女たち」とひとくちにいってもいろいろだ。「女たちの運動」の中では、しばしば性的少数者や有色人種や労働者階級の人々の声は抜け落ちてきた。かつて「女たちを家に閉じ込めるな。仕事をよこせ」と一部の白人女性が声を上げていたとき、黒人女性や労働者階級の白人女性たちはとっくの昔から汗水たらして働いていたので、彼女たちは声をあげざるをえなかった。私は女じゃないの?

そんなわけで、フェミニズムとは「女vs男」という単純な図式では語れない。性差別の問題について話すときに、ときおり反発が出てくるのは、単に男たちが既得権益を守りたいからだけではなくて、このような単純図式に無理があるからだとも思う。

……と、ここまで書かないと、私は「自分がフェミニストだ」とビビって言えない。私がトランスジェンダー男性で女体に生まれた故に、自分はフェミニストだというと、単に「女の味方をしている」と誤解されることが多いのだ。やっぱり女だ、と思われても困る。おれはだれの肩入れもしないっつーの。ジェンダーの問題を主体的に考えたいだけです。

この連載でフェミニズムのことを扱おうと思ったのは、私が関わっているLGBTの社会運動の中に、フェミニズムの視点がもう少しあったらいいのに、と考えたから。この数年の間に、LGBTの話題は一挙に注目を浴びるようになった。LGBTバブルと称されることもある。

「人の顔が一人ひとりちがうように、人の性のあり方も一人ひとりちがう。同性が好きでも、出生時の性別に馴染めなくても、だれもが自分らしく生きる権利がある」――これがLGBT運動の根底に流れるメッセージだ。講演会や新聞の見出しには「だれもが自分らしく」という文字が踊るし、このようなLGBT運動に癒されているいわゆる非当事者の人も多い。

しかし、考えてみれば、今この社会で、いったいだれが「自分らしく」生きられているのだろう。少数派の人間について「自分らしく」というフレーズを与えるより前に、ジェンダーギャップ指数が世界的に低いニッポン社会では、みんな自分ごととしてのジェンダー問題について考えたほうがいいんじゃないか、と心配にもなるのだ。

当然ながら、LGBTの中には女性や男性がいる。ある地方都市に暮らすレズビアンは、この街では性的指向よりも40代にもなって独身であることこそが問題だという。彼女には食えなくて結婚した仲間がいる。

いっぽうでマーケティングの世界にはLGBT市場という言葉もある。ゲイの一部には子どもがおらず可処分所得の高い男性たちがいるため、リベラルでフレンドリーな企業イメージや商品を売ることで顧客獲得につながる。LGBT運動の中でも、ほっておくと男性の声ばかりが大きくなる場面がある。

LGBTをとりまく社会問題に、フェミニズムの補助線を引いてみよう。自分らしく、という素晴らしいけど、まぶしくて輪郭のぼやけてしまうフレーズではなくて、私たちが「女子力」だの「草食男子が増えて困る」だのと会話している地べたの、今ここで。そうして初めて、私たち一人ひとりが尊重される社会について話し合えるのではないだろうか。夫婦別姓もできない社会で、同性婚は難しいと思うし、ね。

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