【第3回】トランス男子のフェミな日常「男にもいろいろある」

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女子校に通っていたというと、よく「モテたでしょう」と言われる。残念ながらまったくモテなかったので、残念でしかないのだけれど、四方八方を女子生徒に囲まれる青春時代というのは、別の意味で悩ましかった。

「ねぇ、お昼ごはん一緒に食べようよ」と女子数名に言われても、いつも内心複雑だった。
(おれ、女子グループと、お弁当なんか食べて、本当に大丈夫なんだろうか……)

というか、ここは女子校なのだから、女子とお弁当を食べるもなにも選択の余地はないのだけれど、自分が本当に、将来男として生きていけるのか不安になることだらけだった。

夜な夜な、インターネットを駆使しては、どうやったら男として生きていけるのかを検索しまくる。なるほど、男性ホルモンを投与すれば声が低くなり、筋肉がつくのか。なんて素晴らしい薬なんだろう! あ、でも副作用もあるのか……なんてことを毎日調べ、声が低くなった自分を想像しては笑みを浮かべる。それでも朝が来ると打ちひしがれながらセーラー服を着て、360度を女子生徒に包囲される。不安にならないわけがない。トランスジェンダーの困難は、生物学的な性が女なのに自分のことを女だと思えないことだ、と一般的には思われそうだが、私の場合には、どちらかというと「自分のことを男だと思えないこと」が問題だった。女体ゆえに、女子包囲網に取り囲まれているがゆえに、男だなんていえない。それでも自分のアイデンティティが男であることには変わりない。

同性として男友達を作ろうと思ったが、これもなかなか難しかった。妙に近づいてナンパだと思われたらどうしよう。あれはたしか小学5年生のときだったと思うが、運動会の二人三脚で、男子とふたりで走り、学年中に「カップル誕生」と冷やかされたことがあった。担任の先生は「自由に組んでいいですよ」と言ったので、何も考えずに、友達の杉山くんを選んだ。おかげさまで、私は女子グループから「男好き」の称号をもらってしまった。このような事態は避けなければならない。

というわけで、結局、青春時代における私のいちばんの男友達は、大槻ケンヂの自伝的小説『グミ・チョコレート・パイン』の主人公になった。この彼は、コンプレックスまみれでなにもできないくせに、自分は他のみんなとはちがうんだと自意識だけ過剰で、サブカルチャーに没頭、その実やっていることは日に3回のオナニーという、かなり泣ける高校生だった。本当に泣ける。

結果として、私が参照している「男らしさ規範」も、どこか歪んでいった。なにしろ参考にできる同性がいない。自分は男だから、カバンにぬいぐるみなんて付けないし、甘いものとか食べないし、メールに顔文字はつけない。それぐらいならまだマシだが「無印良品の筆記用具やリプトンのレモンティーは、なんとなく女子高校生の清純なグッズっぽいから恥ずかしくて買えない」など“買ってはいけない女子高生アイテム”がそのうち増殖しはじめ、なんとも窮屈になってきた。なにをするのにも、「こんなことしたら、やっぱり女だって思われるんじゃないかな」という考えがふとよぎる。額に「性別」と書いたオバケがじっとこっちを見つめている気がする。

この思春期の呪いが解けたのは、20歳ごろにゲイ男性の友達ができるようになってからだ。ゲイの中にもマッチョな連中はいるが、私がつるんでいた彼らはフツーにかわいいものを好み、お洒落なカフェでパフェを注文し、恐怖の「アフタヌーン・ティー」店内にも堂々と入った。ビンゴの景品として香水をくれたときには「いいにおいね」と言ってくれた。男にもいろいろあるということを知るのには、LGBTコミュニティはとても役に立った。めでたし、めでたし。

と言いつつ、私はいまだにスタバの「なんちゃらフラペチーノ」や、「シェフのきまぐれサラダ」が頼めない。なんとなく響きが恥ずかしくないですか? あと、スイーツのことはいまだに「甘いもの」と言ってしまうし、パスタのことは、なんとなく「スパゲッティ」と言ってしまう。スパゲッティ、男らしいじゃないですか。

注文の時にごはん少なめで、というのも恥ずかしい。

あれ、あんまり“呪い”から解放されていないかも……。

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