児童ポルノのない国(ポルノ・フリー)を目指すと語りながらポルノ的商品としての子どもであふれた国(フリー・ポルノ)を推し進めていく、二枚舌の国に私たちは生きています。
日本はようやく重い腰を上げ、児童ポルノを子どもの性的搾取・人権侵害だと認識してその抑止に取り掛かり始めようとしています。2014年の児童買春・児童ポルノ処罰法の改正による単純所持の罰則規制、最近では未成年者の自画撮りによる被害の防止を目的にした都条例改正の検討などの、主に法にかかわる変化は、児童ポルノのない国へのゆっくりとした舵取りを見せています(ちなみに昨年1年間に摘発された児童ポルノ事件の被害者は1313人と過去最高を更新しました)。
しかしその一方ではいわゆるクールジャパン戦略の一環として、国や自治体はエロティックなイメージを帯びた子どもを日本ブランドの目玉商品として売り出し続けています。分かりやすい例は企業・省庁や地方自治体のアニメ風萌えキャラクターによるマーケティングでしょう。けれどこれが二次元に限ったものでないことは、昨年問題になった鹿児島県志布志市のうなぎを少女に擬人化したふるさと納税PR動画などを思い浮かべてもらえば明らかです。
子どもの性と表現に対する国や政府・地方自治体の態度はポルノ・フリーとフリー・ポルノのはっきりしたダブルスタンダードになっています。現代の日本において、今後ますます重要な問題になる児童ポルノを考えるためにはまずこのあまりにも明らかな事実を真剣に受け止めるところから始めなければいけません。二枚舌の語りを支えているのがナショナリズムであることは言うまでもありませんが、このことは児童ポルノをよくある紋切り型の「表現の自由vs性暴力反対」という枠組みで語るときに見えなくなってしまっています。児童ポルノをめぐる語りがどういう立場をとるにせよナショナリズムに回収されてしまう危険性は、後に見るように改正児童ポルノ法についてのメディアの報道や日本の児童ポルノについての最近のBBC3の報道“Young Sex for Sale in Japan”に対するウェブ上の反応などにはっきり見て取れます。
この問題を考えるために、以下ではポルノを巡ってのフェミニズムにおける論争を振り返って、それを手がかりにナショナリズムとポルノについて私たちが考えなければならないことを確認していきましょう。