ポルノ・ナショナリズム “二枚舌の国”日本でいま児童ポルノについて考えるべきこと

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フェミニズムにおけるポルノ論争

「『性の表現』を考えるとき、性差別や女性の抑圧を容認しても『表現の自由』を擁護するのか、それとも差別や抑圧に反対して性表現を含む性の規制を容認するのか、という選択は、少なくともフェミニズムやクィアの立場から見れば、偽の対立でしかない」

 これは、昨年出版された『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(フィルムアート社、2016年)に収録されている、フェミニズム・クィア理論家の清水晶子による「ポルノ表現について考えるときに覚えておくべきただ一つのシンプルなこと(あるいはいくつものそれほどシンプルではない議論)」という論文からの引用です。以下では清水の議論に寄り添いながらフェミニズムにおけるポルノ論争について簡単に振り返ってみましょう。

 ポルノグラフィは1970年代から90年くらいまでにかけて主に英米圏のフェミニストたちを内分した大きな論争の的になりました。注意したいのは、議論の軸になったのは「表現の自由vs性差別的表現の規制」という対立ではないということです。ポルノを性暴力の象徴として批判する場合でも、そうした反ポルノ論を批判する場合でも、フェミニスト達が問題にしたのはポルノ表現を支える「見る男vs見られる女」という非対称なジェンダー関係、つまり視覚的な「性の政治」でした。

 論争の起点になったのは、ポルノや売買春は家父長制に由来する性的・社会的な搾取と暴力の象徴であるというラディカル・フェミニストらによる強い批判です。清水も述べるように、彼女らが問題にしたのはポルノ表現が「見る主体である男vs見られるモノでしかない女」という視覚表現における男性支配制度に基づいていて、女を欲望する主体ではなく欲望されるモノにする性暴力に他ならないということです。象徴的なのは法哲学者アンドレア・ドウォーキンと弁護士キャサリン・マッキノンが制定にかかわった80年代半ばのインディアナポリス市におけるポルノ禁止条例でしょう(性差別を扇動するポルノを禁止するこの条例は、議会を通過し成立したもののその後違憲性が認められて棄却されました)。けれど条例の制定にあたってマッキノンらが皮肉にも中絶禁止など伝統的性道徳をうたう宗教的保守派と手を結んだこともあって、性表現の規制は結局のところ女性たちのさまざまな性のあり方に対する抑圧に加担するのではないか、との批判がフェミニストたちの間で相次ぎました。

 批判の中心になったのは、「見る男vs見られる女」という一方的な関係を強調するドウォーキンらの議論が、これとは異なった「見る―見られる」という関係のあり方の可能性を封じ込めてしまい、結局は視線の一方通行な関係を押し広めることになってしまわないかという点です。例えばジュディス・バトラーは、女性が男性に支配されるポルノ的ファンタジーにおいて女性観客が必ずしも支配される女性に同一化するのでなければ、男性観客が必ず支配する男性だけに同一化するわけでもないと強調します。ポルノ的表現が必然的に男性中心的なファンタジーを引き起こし、そして男性による暴力的な性関係を引き起こすという見方は、ポルノを含むファンタジーの多様な受け取り方を封じ込め、逆説的に女性のセクシュアリティのあり方を限定してしまう。こうしたフェミニストの考えは、現在の日本でも例えばBLと女性読者の関係についての議論などに引き継がれています(溝口彰子『BL進化論』(太田出版、2015年)など)。

 ただしこうしたバトラーらの考えにも批判が寄せられなかったわけではありません。例えばクィア理論の提唱者として知られるテレサ・デ・ラウレティスは、ポルノが多様な受け取り方に開かれているにしても、支配的な「見る男vs見られる女」という視線関係を内面化させられてしまう多くの女性にとって「支配される女性」ではなく「支配する男性」に同一化することは難しいと指摘します。

 こと児童ポルノになると問題はさらに複雑になります。10年ほど前にバトラーが来日講演を行ったとき、児童ポルノについて質問を向けられると「ファンタジーと実践は違うと思う」と簡単に答えるにとどまりました。「見る―見られる」の支配関係や性的ファンタジーの多様なあり方、という語り口では、常に支配される立場に置かれざるをえない子どもについて考えることが極めて難しくなるのです。

 ポルノ論争から30年近くを経た現在の私たちがこの論争から学べるのは、ポルノ表現は抽象的な一般論としての「表現の自由」という問題ではなく、見ること・見られることにかかわる複雑な「性の政治」の問題として考えられなければならないということだ、という清水の主張に私は心から賛同します。なかでも2010年代後半の日本に生きる私たちにとって重要なのは、ポルノを含む性のファンタジーはそれ単独で存在するのではなく、国や民族などの他のファンタジーと密接に絡み合っているということです。例えばドウォーキンらの反ポルノ論が宗教的保守派の反動的な性道徳と皮肉にも手を結ぶことになってしまったように。

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