圧倒的な悪に触れたとき、人は正義感を保つことができるのか。「正義vs悪」の構図を描かない珍しい韓国映画『アシュラ』

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結局、この映画では、正義の側にいるように見える検事ですら、根っこには権力への執着がありました。だからこそ、悪徳市長から「よく見たら、あんたも私とよく似てる」と言われてしまうのでしょう。ここには、監督の「なんだかんだ言ったって、権力にしがみついた時点で、正義ぶったって本当かどうかはわからないし、パク・ソンベのような圧倒的な悪に触れてしまえば、人は最後まで正義感を保てるかはわからない」という気持ちがこめられているのではないかと思いました。人は弱いもんだぞ、と。

圧倒的な悪に触れたとき、人はどうなるかという意味では、以前取り上げた『ディストラクション・ベイビーズ』を思い出す部分もありました。『アシュラ』は、悪に触れた弱きものが弱さから悪になってしまうことをはっきり描いているし、悪になってしまえば、最後には誰もいなくなることを描いている点も誠実だと感じました。悪が生き続けるのであれば、それは『新しき世界』や『インファナル・アフェア』のように、人々の犠牲の上に生きていることを一生背負わなければ生きてはいけないし、それは死ぬよりも強いことだというのが、韓国や香港の倫理観なのではないかと思います。

『アシュラ』は公開当時、韓国での観客の好き嫌いの反応ははっきりと分かれ、初速は良かったものの、結果そこまでの大ヒットには至りませんでした。今の韓国人が「勧善懲悪」に希望を見出しているのかもしれません。私自身、トランプが大統領になり、ポスト・トゥルースという言葉も聞かれるようになった2017年に見たからこそ、真実味を持って見られただけで、去年の時点であれば韓国の人々と同じ反応をしていたかもしれません。きっと、この映画を作り始めたときには、いま世界で、そして韓国で起きているような状況を予想していなかったと思いますが、現実にフィードバックできるような状況になっていることにちょっと恐ろしさも感じます。

この映画は、男の弱さを描いた映画でもあります。主人公ドギョンは、生きるためには「勝つ側につくだけ」という姿勢のせいで、ゆらゆらと立場が揺れ、結局は利用されるだけの存在になってしまいます。またドギョンの弟分で後輩刑事のムン・ソンモ(チュ・ジフン)は、確固たる「自分」がないくせに(“ゆえに”ともいえるでしょう)、忠誠心が強く、承認を欲するあまりになんでもやってしまいます。そこには、兄貴であるドギョンに男になった自分を見てほしい、そのためには、ドギョンの上にいるソンベの承認が必要なのだという男同士の複雑な情も見え隠れしていました。それは、このジャンルの映画として、一番ぐっとくるものでもあります。ラストシーンでソンモとドギョンが死闘を繰り広げ、ソンモが強がって「ケツでもなめてろこのマヌケ」と言ったあと、子供のように泣きじゃくるのですが、死に際してもあふれ出る無邪気な感情が忘れられません。

しかし、ソンモが市長から褒められる様子はまるで犬のようでした。病室でソンモからむいたみかんの人房を口に直接与えられるドギョンもまた市長からしたら犬でした。飼い主に褒められたからといって、何の意味もないことがまた泣けますが、一般社会でありえない構図ではありません。また検事や部長検事も、悪に触れたら、自分の正義を見失ってしまいます。なぜなら先ほども書いたとおり、彼らは最初から、正義を追求していたのではなく権力を目指して動いていたのですから。

この映画には、ではその弱さをどうしたらいいのかという答えはないのですが、弱い人はたくさんいるよねという監督の優しさが『アシュラ』を作ったのではないかと思われます。そんな優しさがあるからこそ、どのシーンを切り取っても、しびれるほどかっこいいビジュアルなのでしょう。
(西森路代)

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