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陶酔させ、誰も不快にしない「正しさ」の洗練――映画『お嬢さん』 西森路代×ハン・トンヒョン

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「悪しきPC」としてのエクスキューズ

西森 日本って、作品の厚みがあるからといってヒットするかどうかはわからない、みたいなところがあったけど、『逃げるは恥だが役に立つ』はそれを吹っ飛ばしたドラマと思うんですよ。

ハン 「逃げ恥」はまさに、さっき話したような意味でのポストPC的なPC作品だと思いますね。誰も不愉快にしないのに、ちゃんとフェミニズム、みたいな。ジェンダー論的な家父長制批判といった重要な話をしながら、ラブコメとして楽しめるようにもなっている。実は結構男性批判をしてるのに、気づかない人は気づかないよね。不愉快にならないで楽しんでる。

西森 平匡が、みくりとの初夜を迎えた後にちょっと勘違いしてしまうシーンに対して、みんな「平匡ー! こらー!」って言ってましたよね(笑)。

ハン あのシーンで、男は「自分が平匡だ」ってすぐには気づかないよね。ゆっくりと、いつか気づくのかもしれない。別に男をむかつかせたい作品ならそれはそれでいいと思うけど、エンターテイメントだからね。パク・チャヌクだって男たちをむかつかせるためにやっているわけじゃないだろうし。

西森 それに、たくさんの人が見ることも前提に書いてますよね。そこから、汲み取れるひとはどんどん奥へと入っていけばいいと。

ハン 多様性のある作品って、まずは様々な人に「見て欲しい」って戦略の側面もある。視聴率だって取れたほうがいいし、興行収入だって高いほうがいい。大事なことは届く人に届けばいいし、じわじわと効かせていけばいいわけで。

西森 そのくらい配慮して、ちゃんと設計できないと、全員に届けられるものは作れないんだなと、でも、そういうことができる人がいて、ちゃんとたくさんの人が見ているってことは希望でもあります。

ハン 「PC=表現の委縮」だ、みたいな話ってつまらないと思うんですよ。だって私の見方が正しければパク・チャヌクみたいに、ものすごいレベルで両立できている監督だっている。まあ『お嬢さん』がPC的な映画ってわけではないかもしれないけど。PCのせいで自由に表現できないって言っている人たちは、自分の力量のなさの言い訳なんじゃないかと邪推してしまう。皮肉や諧謔には頭脳と技術が必要なんですよ。

西森 多層的につくれないことの言い訳にしてはいけないと……。

ハン その事例というわけではありませんが、たとえば映画の『この世界の片隅に』で、玉音放送が流れたあと、町なかに掲げられた大極旗が小さく一瞬映るシーンがあるけど、個人的にはあれがどうしても納得できなくて。単なるエクスキューズにしか見えなかった。ちなみに原作の漫画は未読なので映画に限った話です。

西森 これは別の作品の話ですけど、多様な人を出してますよ、わかっていますよ、とエクスキューズすることがPCだって思ってる人っていますよね。そうすると、PCは表現を狭める堅苦しいものっていうふうにしか思えなくなってしまう。

ハン あそこで大極旗を出すのなら、たとえば呉や広島にも日本の戦争による被害者である朝鮮人がいたとかっていう話がどこかにないとおかしいじゃないですか。もちろん、何も直接見せろ、直接語れということではありませんが、ずーっと日本人の加害者性については何の伏線もなくあれだけを出されても、言い訳程度にしか見えない。だったら日本人は被害者だったという話で一貫して、あれはなかったほうがすっきりしたんじゃないかと思う。だってそういう話ですよね、あの映画。それがいいか悪いかは別の話ですが。そういう意味で、悪しきPCの見本のように感じました。なんでこうなってしまうのかな。

西森 どうすればヒットするのか信じられなくなってしまって、多層的な作品、わかりにくいけどでもものすごい作品を作れないし、嫌悪してしまうところがあるのかもしれませんね。闇雲にわかりやすく受けそうなものを作ることしか信じられない状況なのかも。

ハン 見る人を信じていない、というのはあるかもしれないですね。去年は流行っているものを見ようと思って『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』を見たんです。どれも緻密で、画的な見応えはあり、たくさんの情報やネタが盛り込まれているのは事実だけど、厚みの方向が細部の情報量や再現度や、つまりわかっている者どうしが共有できるものを競う方向というか、普遍的な、多様性に訴えられるような深みにはなっていないような気がしました。別にそれを否定するのではなく、それはそれでひとつの洗練のあり方だとは思うのです、本当に。ただ、「他者」がいるのなら、そして「差異」があるのなら、そのような重層性こそが「世界」なのだから、それをきちんと描いたり取り入れるのは作品を豊かにし、おもしろくするはずだと思うのですが。かといって、「他者はいますね」とか「差異はありますね」とエクスキューズに終始してしまうのはもったいないし、やっぱりそれではエンターテインメントやそのユーザーをなめている態度ですよね。

西森 そこに対しては、それでも私は層や深みを感じるところもあるにはあったんですけど、『お嬢さん』とはやっぱりその層の意味が違うということはわかります。でも、差異がすでにないってことからスタートするには早すぎるんじゃないかってことはすごく思います。それって、あるものを見ないようにするってことですからね。

ハン 『お嬢さん』は、植民地という状況下での民族的な支配と被支配、階層、ジェンダーというそれぞれの社会的ポジションとそのかく乱そのものを、だまし合いというストーリーにのせてエンターテインメントの要素として盛り込み、細部にもフェティッシュな美学を貫徹させながら、エロスでもフェミニズムでもポストコロニアル(植民地主義の暴力にさらされてきた人々の視点から西欧近代の歴史をとらえ返し、現在におよぶその影響について批判的に考察する思想:本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)より)でも、様々な視点から見ることのできる作品になっていました。それは、皮肉たっぷりで辛らつな男性批判、「内なる植民地支配」批判でもあり、女性たちにとって抑圧される手段だった性という資源によって自らを解放しポジションをかく乱させる話なわけで、きわめてクイア的な作品とも言える。女性も楽しめる性描写になっていますしね。痛快でユーモラス、豪華絢爛でエロティックで、芸術性と娯楽性を両立させていて。パク・チャヌクのインテリジェンスとエレガンスの炸裂っぷりに、私にはほめ言葉しか見つからないのですが(苦笑)、もっとこういう作品を見たいですね。
(構成/カネコアキラ)

■ハン・トンヒョン(韓東賢)

日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリ ティの関係やアイデンティティなど。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)― その誕生と朝鮮学校の女性たち』、共著に『平成史【増補新版】』、『社会の芸術/芸術という社会―社会とアートの関係、その再創造に向けて』など。

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