日本で唯一の“パフェ評論家”である斧屋(おのや)さん。著書『東京パフェ学』(文化出版局)では「パフェは究極のエンターテイメント」という言葉を掲げながら、東京近郊のパフェ店のガイドとともに「パフェ」という文化事象についての考察を綴っています。ブログ『斧屋のパフェ道』をはじめ、雑誌やテレビなどの各メディアでパフェの魅力を紹介し続けている斧屋さんが、パフェ以前に専門としていたのは「アイドル」でした。
斧屋さんは、パフェとアイドルを結びつけて語ることも多く、『東京パフェ学』の中でも、能町みね子さんとの対談で「フルーツパフェとアイドルは等価のもの」と熱弁されています。パフェとアイドルには、どちらも甘くてフレッシュでかわいらしい、少女的なイメージがあります。「アイドルを消費することと、パフェを食べることには同じエロティシズムがある」と語る斧屋さん。「食べる」ことも「消費」することも、ある意味では暴力的なものです。しかし、パフェとアイドルを関連づける斧屋さんのパフェ論は、両者に向けられるこうした男性的な権力を手放すところから始まっています。パフェもアイドルも「食べられる」だけのものなのでしょうか? アイドルとファン、パフェと食べ手の間にあるものとは? パフェによって自己を揺るがされる快感とは? パフェとアイドル、二つの文化を通して考える「性」について、語っていただきました。
パフェを食べることのエロティシズム
――斧屋さんご自身が、アイドルとパフェに共通していると考えている部分を教えてください。
斧屋 どちらも日本独特の文化ですよね。パフェもアイドルも、みんな知っているはずなのに、どこか遠い感じがする。歴史自体はかなり浅いものなのに、興味がない人からしたらいつまでも昔懐かしいイメージというか、「過ぎ去った感」のあるものとして受け取られてしまう。そういう表象としてはものすごく似ているんですよね。パフェもアイドルも、まず一度は見た目で判断されてしまう。そして、マニアになればなるほど「見た目じゃねえよ」と言い出す(笑)。容姿や歌のうまさではなく、もっと別の何かがあるんだ、と。
――アイドルのファンは「頑張ってきた物語が」とか、よく言いますよね。パフェの中にも、パティスリーが作るものと、フルーツパーラーが作る、新鮮なフルーツがメインになったものがありますが、果物のフレッシュさもまた、若さを売りにするアイドルらしさが感じられます。
斧屋 フルーツパフェはまさにアイドルですね。これもまた、日本独特の進化を遂げた食べ物です。パフェという食べ物は海外にもあるけど、日本のフルーツパフェのようなものはおそらく存在しない。海外では、果物は基本的にシロップ漬けにしたり「加工して甘くするもの」という扱いで、生食用のフルーツっていうのはそんなにないんですね。日本だと、生の果物を甘くするために品種改良を重ねたり、ものすごく手をかけるじゃないですか。そして、その生の果物がパフェの中で主役になる。
フルーツもアイドルも、食べられる(消費される)ためにものすごく手をかけて育てられているんですね。なのに、本質的な生殖からは切り離されている。アイドルなんて、あれだけ性的な魅力を振りまいているのに、本人は恋愛禁止、スキャンダルはご法度じゃないですか。ものすごく手をかけられて、「魅力あるよ〜」と言われながら育つんですけど、彼女たちの魅力が増せば増すほど、生殖からは切り離されてしまう。果物だって、生殖に必要な種子を品種改良で取り除かれていますよね。それもすべて、食べられやすくするため。だからフルーツを食べるときって、暴力的な感覚や罪悪感があるんですよ。
――二つの間にある違いはなんでしょう。
斧屋 やはりアイドルと違って、パフェの場合は「食べられる」ということじゃないでしょうか。食べられるということは、嗅げるし舐められる。五感のうちで、視覚と聴覚の二つは複製しやすいから、メディア的な広い商売も可能なんですが、それが触覚になると、アイドルなら握手会とか、ちょっと限定性が高まってくる。でも、嗅ぐとか舐めるとかはアウトですよね。この感覚の距離感によって、エロス度が高まってくるのではないか。だから「食べる」という行為は、エロいと言わざるを得ない。パフェの方が優れているという部分を挙げるとするならば、その感覚が投入できるところだと思います。
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