前編ではパフェやアイドルの文化に自分が「揺らがされること」のおもしろさを語ってくださったパフェ評論家の斧屋さん。食べる側/食べられる側にある力関係からあえて逃れ、パフェを食べることで「かわいい自分」になったり、パフェに翻弄されたりする感覚を大事にしているそうです。また、パフェもアイドルも、作り手と受け手の間に生じる相互作用によっておもしろくなっていくのだといいます。では、そんな斧屋さんにとっての「おいしいパフェ」とは?
「おいしさ」をはかる物差しは一本じゃない
――一般的に、食べ物の価値を決める基準は「おいしさ」とされています。昨年末、「正しいのはどっち? 第一回『グルメ vs 味オンチ』討論会」という記事がぐるなびに掲載されましたが、私には「おいしい(グルメ)」=「正しい」、「おいしくない(味オンチ)」=「正しくない」という一直線の図式が展開されているように思えました。でも「おいしさ」ってもっと多様なものだと思うんです。斧屋さんはパフェを食べるときに感じる「おいしさ」を、どのようなものとして受け止めていますか?
斧屋 去年か一昨年、はじめて女子サッカーを観たんです。スポーツって、基本的には男子の方が身体能力も高いし、試合のレベルも全然違いますよね。でも実際に観てみたらものすごくおもしろかった。そのときに「おもしろさって、何においてはかられるんだろう」と思ったんです。スポーツっていうのは、ルールに従って勝敗が決まるわけだから序列がつきやすいですよね。プロ競技者が一番レベルが高くて、その中でも一部と二部、シニアとジュニアって段階がある。しかし、それよりレベルが下の、草サッカーや高校野球みたいなものがつまらないかって言ったら、そうではなかった。翻って、パフェやアイドルとかってどうなんだろう、と考えたんです。
――パフェの中にも、高級でおいしいパフェ、そうじゃないパフェってありますね。
斧屋 僕は、純喫茶にあるようなパフェって、正直言ってそんなにおいしくないと思うんですよ。味覚が一昔前からアップデートされていない感じがする。だけど、喫茶店やファミレスのパフェを、誰かとおしゃべりしながらつついているときって、みんな適当な集中力でいるからこそおいしいんですよね。適切な集中力の濃淡というのがあって、雑に食べるのが適切なパフェというのもあるんです。おしゃべりしながら、場合によっては「これおいしくねえな」とか言いながら食べる。だけどその体験自体は、実は「おいしい」。こういうことを考えると、確かにレベルとしての序列はあるとしても、体験として必ずしもレベルが高いものが至高かというとそうではない。そういう感覚っていうのは大事だと思います。やっぱり一直線なランキングって、おもしろくないですよね。多様性を排しすぎるというか。
「正しい道を探し続けること」を教えてくれるパフェ
――去年、京都の水族館がイワシの生姜煮を刺したパフェを出していました。常識的に考えておいしくはないあのパフェを、斧屋さんは否定しませんでしたよね。パフェを評価するのにも、「いい材料を使っている」「味がおいしい」といった、ある意味一般的な物差しに捉われるのではなくて、物差しを毎回取り替えたり、作り替えたりしながら一本一本のパフェと向き合っているような気がします。
斧屋 ある枠に捉われている方が、わかりやすいし楽ですよね。既存の概念とか、「みんなそうしている」っていう枠組みに沿って生きることは、自分で判断をしなくていいし、責任を負わなくていいからすごく楽なのですが、まあおもしろくはない。僕は大人になる前から「普通であることをいかに外していくか」っていう感覚のほうがおもしろいと思っていたので、いかなるときも「自分は普通なんだ。自分が正しいんだ」という感覚は持っていません。
僕はブログがきっかけで評論などを発表するようになったのですが、当時から自分の正しさを証明するつもりはさらさらなく、「今はこう思っているんだけど、もし自分の言うことが間違っていたら教えてくれ」という思いだったんですね。だから当初は毎回自信がなくて、それでも「よくできるならよくしていきたい」と思ってずっと続けていたわけです。自分の書いたものについておもしろいなと思うことはあっても、正しいとはほとんど思わなかった。というよりも、「正しい自分」みたいなものは求めてないというか、そもそもそんなものは存在しないと思っているし。
――「正しい自分」にしがみついていると、何かあったときに、そこで行き詰まりになってしまいますよね。
斧屋 僕が仲良くしたいと思うのは、将棋の感想戦ができる人なんです。自分が間違っていた/勝負に負けた、といったときに、それでもなお自分の正しさにこだわり続けてしまう人がいます。「そもそも負けてない」とか「自分は正しかったんだけどなぜか負けた」とか、よくわからないことを言う。そういう人って、確かに自分の芯を持ってはいるんだけど、その芯は「自分が正しい」というものです。目指すべきは自分の正しさに執着するのではなくて、「自分は正しい方へ向かっている」という芯を持つことなのではないか。将棋で負けたのなら、相手より自分の方が間違いが多かったということだし、「じゃあ正しい道はなんだったんだろうね」と話すのが一番生産的なわけで。
文化一般の話になってしまいますけど、当然パフェやアイドルの定義も同じような宿命を抱えていて、「パフェってなんだ」「アイドルってなんだ」って、つねに問い直しを重ねて変化していくものだと思うんですね。時代によって定義が変わっていくような。
「パフェは時間芸術だ」
――いままでのお話を伺っていると、斧屋さんのパフェに対する態度や、文化の定義に見られる流動性は、まさにパフェそのものが持っているもののような気もします。パフェってつねに溶けて流れていって、一口ごとに味や食感の変化がありますよね。
斧屋 そう思います。パフェって、つねに流動的なものだと思うわけですよ。食べ始め、真ん中、終わりでどんどん体験が変わっていきますよね。「パフェの完成とはいつか」問題って、すごくおもしろいんです。もちろん登場したときがある種の完成、作り手としての完成ではあるんだけど、食されていないという点においては、まだ何もスタートしていない。パフェは、食べる体験そのものが知覚されていない状態では完成と呼べないと僕は思っています。じゃあ「どこが完成なのか」と言われると、つねにその場その場で、ある程度完成しているように思えるし、食べ終わったらそれはそれで完成かもしれないけど、その時には対象はもうない。だから「パフェは時間芸術だ」といつも言っているわけなんですけども、そういう芸術体験における完成みたいなものってないじゃないですか。
――「ここが完成体だ」ということが、いつまでも断言できないですね。
斧屋 僕はとにかく、一直線のものはおもしろくないと思っています。一直線になると、そこから外れたもの、線の下にあるものは悪だと決定してしまう。たとえば苦味っていうのは本来不快なものですが、「苦いけどうまい」とか「痛いんだけど気持ちいい」というようなことは当然あるじゃないですか。でも一直線の基準に基づくとなると、そこで思考停止に陥って、ちょっとでも不快なものは排除されてしまう。性的な行為で言えば、わざわざ他人と交わらなくても、射精ができるっていう一点だけを目指せばいいということになりますよね。それに向かって効率的なシステムを作ろうとする。だったらTENGAでいいじゃんって話です。
もちろんそうやって効率を追求するのもおもしろいんですけど、あえて他者と交わるのであれば、「ある一点のみを重視する」みたいなあり方は、やっぱりおもしろくないと思うんですよ。一点から外れたものが、もしかしたらめちゃくちゃ気持ちいいかもしれないっていう可能性を排除してしまうわけだから。自分をある評価軸に押し込んでしまえば安心だけど、すごく狭い檻に自分を閉じ込めているような感じがします。
だから僕は、快楽とリスクは裏表なんだと思います。アイドルの世界も楽しいけど、すごくつらい。だけどいいとこ取りはできないし、つらいからこそ思い入れが出る部分もあるわけだし。だから今日食べた柑橘のパフェみたいに、苦さもあって酸っぱさもあって甘みもあったほうがいいんじゃないの、っていうような。これはこれでもちろん「流動的であったほうがいい」っていう一つの価値観なので、堂々巡りなんですけどね。
――「いつまでも完成させたくない」ということでしょうか。
斧屋 まさにそういうことじゃないですか。「自分はもうここまで到達した、学ぶものは何もない」という地点って、つまらないですよね。自分が宗教学出身ということもあると思いますけど、僕は「超越的なもの」っていうものは自分とは別にあってほしいという気持ちがあるんですよ。自分の思うようにならないことがあったほうがいいし、実はそういうときの方が、より深い快楽を味わえる可能性があるというか。
とくに性的な快楽なんて、自らがコントロールしきれてしまったら、もはや気持ちよくないんじゃないかな。「これは僕が予想していた、思い通りの気持ちよさだ」という快楽って、はたして快楽なのか。効率はいいのかもしれないけど、「全く新しい自分」にはなれないだろうし、それはやっぱりおもしろくないなと。だから流動的であるっていうのは、「つねに学ぶ余地を残しておく」というか、「新しい発見ができることを信じておく」とか、そういうことじゃないでしょうか。パフェだって、「ここの店が一番おいしいな、もうほかの店は探さなくていいや」ってなったらおしまいというか……。
しかし、これもやっぱり「流動的であるのがよい」という一つの価値観なんですよね……。結局は自分が正しいと思っているんじゃないかと感じてしまう。でも、ここで口をつぐむこともできない。暫定的な答えを出し続けていくしかないというか。いつまでも完成にならないというのは、パフェと一緒ということで。
(聞き手・構成/餅井アンナ)