どこまでいっても完成しないパフェと、完成しない自分/パフェ評論家・斧屋さんインタビュー【後編】

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「パフェは時間芸術だ」

――いままでのお話を伺っていると、斧屋さんのパフェに対する態度や、文化の定義に見られる流動性は、まさにパフェそのものが持っているもののような気もします。パフェってつねに溶けて流れていって、一口ごとに味や食感の変化がありますよね。

斧屋 そう思います。パフェって、つねに流動的なものだと思うわけですよ。食べ始め、真ん中、終わりでどんどん体験が変わっていきますよね。「パフェの完成とはいつか」問題って、すごくおもしろいんです。もちろん登場したときがある種の完成、作り手としての完成ではあるんだけど、食されていないという点においては、まだ何もスタートしていない。パフェは、食べる体験そのものが知覚されていない状態では完成と呼べないと僕は思っています。じゃあ「どこが完成なのか」と言われると、つねにその場その場で、ある程度完成しているように思えるし、食べ終わったらそれはそれで完成かもしれないけど、その時には対象はもうない。だから「パフェは時間芸術だ」といつも言っているわけなんですけども、そういう芸術体験における完成みたいなものってないじゃないですか。

――「ここが完成体だ」ということが、いつまでも断言できないですね。

斧屋 僕はとにかく、一直線のものはおもしろくないと思っています。一直線になると、そこから外れたもの、線の下にあるものは悪だと決定してしまう。たとえば苦味っていうのは本来不快なものですが、「苦いけどうまい」とか「痛いんだけど気持ちいい」というようなことは当然あるじゃないですか。でも一直線の基準に基づくとなると、そこで思考停止に陥って、ちょっとでも不快なものは排除されてしまう。性的な行為で言えば、わざわざ他人と交わらなくても、射精ができるっていう一点だけを目指せばいいということになりますよね。それに向かって効率的なシステムを作ろうとする。だったらTENGAでいいじゃんって話です。

もちろんそうやって効率を追求するのもおもしろいんですけど、あえて他者と交わるのであれば、「ある一点のみを重視する」みたいなあり方は、やっぱりおもしろくないと思うんですよ。一点から外れたものが、もしかしたらめちゃくちゃ気持ちいいかもしれないっていう可能性を排除してしまうわけだから。自分をある評価軸に押し込んでしまえば安心だけど、すごく狭い檻に自分を閉じ込めているような感じがします。

だから僕は、快楽とリスクは裏表なんだと思います。アイドルの世界も楽しいけど、すごくつらい。だけどいいとこ取りはできないし、つらいからこそ思い入れが出る部分もあるわけだし。だから今日食べた柑橘のパフェみたいに、苦さもあって酸っぱさもあって甘みもあったほうがいいんじゃないの、っていうような。これはこれでもちろん「流動的であったほうがいい」っていう一つの価値観なので、堂々巡りなんですけどね。

――「いつまでも完成させたくない」ということでしょうか。

斧屋 まさにそういうことじゃないですか。「自分はもうここまで到達した、学ぶものは何もない」という地点って、つまらないですよね。自分が宗教学出身ということもあると思いますけど、僕は「超越的なもの」っていうものは自分とは別にあってほしいという気持ちがあるんですよ。自分の思うようにならないことがあったほうがいいし、実はそういうときの方が、より深い快楽を味わえる可能性があるというか。

とくに性的な快楽なんて、自らがコントロールしきれてしまったら、もはや気持ちよくないんじゃないかな。「これは僕が予想していた、思い通りの気持ちよさだ」という快楽って、はたして快楽なのか。効率はいいのかもしれないけど、「全く新しい自分」にはなれないだろうし、それはやっぱりおもしろくないなと。だから流動的であるっていうのは、「つねに学ぶ余地を残しておく」というか、「新しい発見ができることを信じておく」とか、そういうことじゃないでしょうか。パフェだって、「ここの店が一番おいしいな、もうほかの店は探さなくていいや」ってなったらおしまいというか……。

しかし、これもやっぱり「流動的であるのがよい」という一つの価値観なんですよね……。結局は自分が正しいと思っているんじゃないかと感じてしまう。でも、ここで口をつぐむこともできない。暫定的な答えを出し続けていくしかないというか。いつまでも完成にならないというのは、パフェと一緒ということで。
(聞き手・構成/餅井アンナ

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