自分探しのために「娼婦は女神」「タイは楽園」と消費しない、知的で誠実な映画『バンコクナイツ』の魅力/鈴木みのり×ハン・トンヒョン

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空虚な存在・オザワの、他者を消費しない自分探し

ハン 富田克也監督が主人公のオザワを演じていますが、オザワはマッチョじゃない男性ですよね。よくわからない、空虚な存在になっている。ラックとオザワの関係も不思議で、ラックの昔の客だったのか、付き合っていたのか、曖昧なままになっている。そもそも、金のないオザワがああいう場所でモテるはずがないから、ラックにとってオザワは他の男とは違う何かがたぶんあって……。

鈴木 ラックの勤める店があるタニヤ通りみたいな場所では、日本人の男性の方がお金を持っていて、女性たちの頬を札束で叩くようなことがあってもおかしくない。なのに、対オザワの場合、むしろラックのほうがお金を持っている。この逆転もこの作品のおもしろさだと思います。

ハン 私は、オザワは格差社会の負け組がネトウヨにならずに、アジアとどうやってかかわることができるのか、というひとつの道すじを示しているのかもしれないな、と思ったりしました。

最初に鈴木さんが周辺化とおっしゃっていましたが、周辺化って、他者を受動的な存在とみなすということで、表象においては、他者を自分のために消費することになります。昔だったら『深夜特急』を読んで世界を旅するみたいな、自分探しのためにアジアに行くような人たちは、自分のためにアジアを消費してしまっているところがある。

鈴木 いまだにあの本がバイブルだと言う人もいますよね。若者でも。

ハン でもオザワにはそういう空気を感じない。かといって、「パレスチナに行って世界革命するんだ!」みたいな大義名分ありきの実はマッチョな自分探しをしているわけでもなく、とはいえアジアのために頑張ろうという「井戸掘りボランティア」みたいな感じもまったくない。そのうえで、だからこそなのかもしれないけど、ラックみたいなアジアのセックスワーカーを消費せずにフラットな関係を築けている。なぜオザワにそれが可能なのかはまだよくわからなくて、言ってしまえばそれを考えたくてこの対談を引き受けたところがあるんだけど、オザワのよくわからなさ、空虚さは、それこそ空族が『サウダーヂ』で描いた負け組のネトウヨ化とは違った、ひとつのモデルを示しているのではないかと思ったんです。そりゃまあもちろんみんながネトウヨになるわけではないんだけどね。ということで、この映画に出ている日本人男性は誰一人自分探ししていないかも。

鈴木 えっと、まあ……金城とかは(笑)?

ハン ああ、金城か。あれも自分探しなのか。でも古いタイプというか、唾棄すべき植民地主義の象徴として描かれているような気がする。しかし違う意味で空虚ですね、あれは……。そういえば日本人の中にも格差がありましたよね。金がある日本人と、オザワみたいな金のない日本人がいて。

鈴木 以前は会社勤めをしていて、いまはタイで便利屋をやっているというキャラの菅野なんて、沈没組(駐在や観光といった本来の目的から外れて現地化する人々)って言われていましたよね。

ハン そうそう、菅野やオザワは、自分探しをする余裕もなくなっている。自分探しをしないこと自体は、いいことなんじゃないかと私は思っています。

鈴木 ラックたちを指して、しんちゃんが「生きるのに必死」と言うセリフもありましたよね。しんちゃんは、自分探しなんてしてなくて、「外から来た人間」と優位性をわきまえているような態度が好ましかったです。わたしの知っているバンコクに住む日本人は、そういう人も少なくない。

ハン その差異に敏感なのは大事ですよね。マジョリティのくせにアイデンティティとか言ってる場合じゃないだろ、と正直思いますし。だから彼らは、タイの女性をたくましいと言って消費するようなことはしていませんでしたね。

鈴木 この映画の良いところは、さっきハンさんもおっしゃってたように「娼婦は女神」「娼婦は天使」みたいな神格化をしていなくて、彼女たちの中に、ドラッグにハマって堕落していくような女性を描いてもいた点ですね。社会的に不安定な存在が快楽に溺れる、というのは日本でもありうる。

ハン だからこそ対等というか……本当に対等と言っていいのかについては慎重でなくてはならないけれど、少なくとも周辺化はしていないし、消費していないように見えました。

鈴木 ただ一箇所引っかかったシーンがあって……不動産調査の依頼を受けて、今からラオスに行くと言うオザワに、ラックが怒るところです。あのシーンでのラックの、「おまえ! おまえ! おまえ! 自分! 自分! 自分!」っていう叱責、あれは今まで出会ってきた男たちへの怒りの集積だと思ったんですよね。ラックは、客から婚約をほのめかされるメールをもらったり「愛してる」と言われたり、互いの人生にコミットするようなそぶりを見せられているんだけど結局みんなどこかに行ってしまう、そんな人生を送ってきたんだと示唆されています。オザワがラオスに行く前に、ラックは休みを取って故郷に彼を連れて行って、家族と馴染んだように見え、ラックは安心してオザワは送り出したのに、そのあと一度も連絡がなかったんですよね。そりゃ、ふざけんなってラックが思って当然。ノンカーイで友人に「誰も私のことを必要としていない」とラックが絶望的に吐露するシーンもあって、とても共感しました。

ハン ああ、あそこ印象的ですよね。そっか、ラック個人の、そして構造的な問題としての、大きな怒り、悲しみのようなものが表現されていたんですね。ただ2人のすれ違いは、オザワとラックの、日本とタイの、いい悪いではなく近代化の度合いの違いでもあったりするのかな、と感じました。経済的にダメになった日本の負け組のオザワと、タイの田舎出身で下層のセックスワーカーのラックの関係は、グローバル化のもとでのある意味アンダークラス同士の出会いでもあるのだけど、自分探しから降りたとはいえオザワは自意識のレベルではよくも悪くも後期近代というか先進国の人っぽくて、ラックはいつか家族をつくって地元に落ち着きたいといったような、言ってしまえば古風な考え方を持っているっていうすれ違いでもあるのかな、と。

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