ここでわたしたち(観客)に他人のスキャンダルを楽しむサイテー性を突きつけ、凡庸な消費者を批判する一方で、映画は主人公の静を、つまり福山雅治というスーパーヒーロー街道に立ち続けてきた役者を、結局なんだかんだでヒーロー的に描く。静に対しての視点は、サイテーでオッケーに終始している。聞くに堪えない時代錯誤なセクハラは、仕事仲間の意味不明な結束(ええ話)や、憧れのカメラマン(ロバート・キャパ……)への熱い思いで目くらましさえれたうえ、最終的には本人が死ぬことによって美談を極めるのだが、部下の女性が処女か非処女か予想する賭けを行っていたことが「ほっこりするエピソード」として成立するほど、わたしたちの世界はサイテーではないし、福山雅治(=イケメン)を甘やかしはしない。よってこの映画の批判性には意味がなく、ただのサイテーに終始するのだった(カメラを銃代わりに、と言いたいならば、撃った本人を殺したところで問題は何も解決しないことくらいわからないのだろうか)。
権力に楯突くアウトローがかっこいいのは、あくまで、そいつが「実はええ奴」だからではなく、どこまでもアウトローだからではないか?
男は男を批判できないのか?
監督の過去作『モテキ』でもそうだったが、主人公(男性)が散々最低なことをやり散らかしても、最終的にすべてが「許される」。だってモテない男子だって色々苦しんでるだもん! 最後には可愛い女の子に振り向いてもらわなきゃオレたちやってられない! と言いたいようだったが、映画の中にはなぜそいつがモテないのか(そして何故モテないことがダメなことなのか)が、まるで描かれていない。なんの批判性もなく、監督に甘やかされただけの存在でしかないので、ただ単にウザいイマドキの男の子にしか見えなかった。
今作の唐突で不自然なラブシーンは原作通りということらしいが、それさえも「セクハラで失礼なことを言いながらも、いざという時には女優を綺麗に撮れる(本心では女優をリスペクトしている)俺」アピールにしか思えず、醒める。
そして主人公が死んだあと、ある写真をめぐって社内で意見が対立する問題も、一見報道写真の倫理を扱っていると思わせて、数分後にはなんの説明もなく解決しているという無責任ぶりだ。これには心底呆れた。
いくら福山雅治が体を張ってヨゴレ役を演じても、二階堂ふみがギリギリ一肌脱いでも、この監督自身がいつまでも「許される」世界でしか作品を作る気がないのなら、役者の頑張りに対しても不誠実な態度と言えるだろう。残念である。
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