愛国心と公共教育を混同し、ためらいなく「強い日本」へ先導する安倍政権への憤り

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思想なき保守の空売りは人間を馬鹿にしている

 以上、当方こそが「それ(愛国保守思想)とこれ(父との思い出)」とを豪快に混同しているわけだが、家父長制の復権を願う政治家が「強い父性」を持たず、自らの説明責任を怠り、右往左往している現状は、当方にとって大変嘆かわしい事態である。本気で強い日本を取り戻すつもりなら、まずは己を律し、我欲を耐え忍べ。弱すぎる胆力を鍛え直せ。

 安倍首相が父で、稲田大臣が私だったら、「お上の議場でとぼけるなど言語道断!」の一喝とともに父は私を日本刀で切って捨て、返す刀で切腹したことだろう。無論、これは部下の甘えを許さず、己をも律する厳しさを表す比喩であり、そうであってほしい、という願望ではない。私は父を愛しているが、そんな教育が一般にまかりとおってはならないと考える。愛国とは熾烈であり、暴力的であり、情熱を思い詰めるほどに胡散臭さが倍増するような暗黒面がある。籠池夫妻の暴走がいい例だ。

 その胡散臭さが公然と馬脚を現した今、そもそも「善の道徳教育」やら「世界に尊敬される美しい日本の文化」やら「強い日本」やらの、薄らぼんやりとした愛国御花畑イメージのみを羅列したところで、すんなり刷り込みに適応するほど国民は愚かではない(と、私は信じたい)。児童が道徳のテストで優秀な成績を収めても、それは算数や国語の正解同様に、容易には人間の精神に定着しない。事実、私は教育勅語を朗唱したが、「お上のために死ぬ」精神性を刷り込まれなかった。

 それはあくまでも私個人の話であり、刷り込みに適応しやすい人もいるかもしれない。適応前提で、保守政党が「教育によって愛国心、郷土心を子供たちに刷り込める」と踏んで再教育を企てているようならば、人間を馬鹿にするのもほどがある。否、集団的自衛権を強行採決し、共謀罪についての説明責任も尽くさない態度を鑑みるに、完全に馬鹿にしているのである。

 同時に、教育と思想を軽視している。政治家や権力者の一部に国民軽視の奢りがあるとして。お上のお達しを受け、その善悪や是非や国民への影響を「特に何も考えず」に従う公人が、公の場で答弁を行う。権力者に阿るために、あるいは仕事の通例として、忖度を行う。ビジネス保守が、国民を踏み台にして、利権に群がる。

 思想なき公人が、国民をしたたかに騙して保守を貫き通そうとする矜持も気骨もなく、国民に不信感を抱かせる教育方法論を、ためらいもなく運んでくる。このような保守の空売りシステムが、日本の未来を担う子供達の教育を左右する。その人間個人と思想と教育の存在の耐えられない軽さに、当方は恐怖を感じる。

 ためらいもなく“全体”に干渉する者は、“全体”によって己の“個”を蔑ろにされてきた者、あるいは蔑ろにされていることに気づかない者であると、この連載でたびたび言及してきた。彼らにとっては、自分の個も他者の個も「特に気にする必要がないもの」なのだ。よって、人間の扱いが雑になる。説明もなく自他の境界線を軽やかに越えてくる。子供たちは学校教育以外の場でも、人間を学ぶ。人間の背中をしっかりと見て育つ。その背中、子供たちに見られて恥ずかしくないかと、改めて問いたい。

 最後に、安倍夫人と籠池夫人のメールで話題となった「祈り」について記したい。昭恵夫人は敬虔なクリスチャンと報道されているが、当方は無宗教ながら、イエス・キリストの言葉で一つ信じて実行していることがある。それは「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(マタイ6章)。善行は、誰かに承認されるために行ってはならない。誰かが見ていなくとも、褒められなくとも、清い心で一人、ただひっそりと善を行う。何もねだらない。善に意味も問わない。ただただ信じ、行う。これが「祈り」だ。覚えておけ。

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