在米アジア人の「悶々」
この件の数日前にはカリフォルニア州でAirBnBのアジア人拒絶事件があった。部屋をすでに予約済みだったアジア系アメリカ人の女性が現地到着寸前に部屋のオーナーから「アジア人である」ことを理由に部屋の貸し出しを拒否されていたのだ。こちらは女性とオーナーがやりとりしたテキスト・メッセージが残っており、アジア系への人種差別と断定され、オーナーはAirBnBから契約解除された。
Trump Supporter Cancels Asian Woman’s Airbnb Stay
しかしユナイテッドの件がアジア系への差別行為であったか否かは誰にも証明できない。少なくとも筆者自身はビデオを観た瞬間に「アジア系以外なら、ここまではされないだろう」と思った。他の多くの在米アジア人も同様にそう思った。
これはアメリカに住むアジア系としての体験からくる心情だ。アメリカ生まれのアジア系アメリカ人であろうが、アジア諸国から移民としてやってきた者であろうが、アメリカでは人種的マイノリティだ。かつ、出身国の違いも関係なく「アジア人」で十把一絡げにされる。極東内では複雑な関係にある日中韓もアメリカでは見分けられず、違いを主張すれば “whatever” (何であれ一緒だ)と言われてしまう。
筆者はニューヨークというリベラルな多民族都市に暮していることもあり、直接的な差別――アジア人であるという理由で暴力を振るわれたり、アジア人を意味する蔑称を投げ付けられたり――といった経験はない。しかし日常生活の中で「もしかすると、今のは差別?」と思える体験には遭遇してしまう。そんなとき、人種差別と証明のしようはなく、「偶然の出来事かも……」と自分の中でうやむやに終らせざるを得ず、しかし、それは徐々に心の中に積もる。今では「私はこの国ではマイノリティなのだ」という断定がなされ、自身のアイデンティティの一部となっている。
例えばドラッグストアやスーパーのレジ係が自分の前の客とは談笑していたのに自分には笑顔ひとつ見せない無愛想な態度であった場合。筆者は「私がアジア人だから?」と思ってしまう。同時に「いやいや、前の客とは顔見知りだったのかも」「そもそも、この人は基本的には無愛想な人なのかもしれないし」など、あれこれ考えを巡らせてしまう。レストランのウエイターがなかなか注文を取りにこない時も同様に「私たちがアジア人だから?」と思う一方、「忙しいだけかも……」と悶々とする。
もう少し強烈な「もやもや」体験もある。以前、筆者がYMCAに勤めていた時のことだ。その日は誰も使っていなかったコンピュータ教室で一人で仕事をしていたところへ、他州からニューヨークの大学見学ツアーにやってきた高校生たちがオリエンテーションのためにドヤドヤと入ってきた。ツアーの担当者は筆者に「そのまま仕事を続けていいよ」と言った。
高校生たちは席に着いたが、一人の白人の女子高生がつかつかと筆者に近づいた。筆者は空いていたイスを自分の真横に引き寄せて資料を積んでいたのだが、女子高生はまったくの無言で資料をイスから机に移し、イスを押して仲間のところへ戻った。彼女の分だけイスが足りなかったのだ。とっさのことで女子高生の行動の意味が分からず目を白黒させたのだが、後に考えついた可能性は3つ。女子高生が「アジア人を見下していた」「アジア系のいない地域に住んでおり、アジア人への対応が分からなかった」「アジア人が英語を話せるか分からなかった」。
仮にアジア人に不慣れでも、もしくはこちらの英語に問題があったとしても、「イスを借りるね」とひとこと言えば済むことであり、女子高生には差別意識があったことを今なら断言できる。