
ナガコ再始動
2015年、学習指導要綱の一部改定により、それまでは教科外活動であった小中学校の「道徳」が教科として規定された。以降、その教科書の内容や評価基準、指導方法等の検証、前制度からの移行手続きを随時行い、小学校では2018年度、中学校では2019年度より完全実施されることとなる。
「道徳」の教科化に伴い、文科省は「国や郷土を愛する心」や「伝統文化を重んじる精神」などを児童に教育すると説明する。これに対し、一部の国民は、国家による愛国心の押し付けであると不信感を募らせている。文部科学省のHPのQ&Aのコーナーにも、「入試で愛国心が評価されるのは本当か」と問う国民の声が紹介されているが、文科省の回答は「特定の考え方を押し付けたり、入試で使用したりはしません」というものだ。
その他、「道徳」の学習指導要綱には、児童のいじめ自殺問題を視野に入れた「個性の伸長」や「相互理解」といった個の多様性、寛容性を重んじる要素も含まれている。よって、個人の人権を尊重する当方は、内容そのものを一概に否定するつもりはない。が、その内容について、国民への説明を充分に尽くさない文科省のコミュニケーション能力のなさには、大いに失望する。
折しも、このところ文科省が教育分野で取り扱うキーワード(歴史の教科書における「教育勅語」の資料掲載の容認、新学習指導要綱にて中学校体育の武道種目に「銃剣道」を追加)は、一見して戦前回帰路線を想像させる代物である。よって、不安感情を抱いた国民は説明を求める。しかし文科省は「国民に理解を促す説明」ではなく、「政治屋による政治屋のための答弁」に終始し、国民に対する説明責任を果たさない。だからこそ「愛国心の押し付け」のみが強調され、国民の不安や政治不信をいたずらに扇動する。そんな当たり前の筋道さえ分からない者が、この国の児童教育を司る。噴飯ものである。
木村屋のあんパン革命
さらには、検定教科書(文部科学省の検定を通す)である「道徳」の教科書について、出版社が文科省の「愛国心」を忖度し、パン屋さんを和菓子屋、お菓子屋に変更するといった珍事も勃発した。教科書としての公共性や思想そのものではなく、お上が喜びそうな配慮を心がける「通常業務」を、出版社は行った。結果、すでに学校給食や日本人の食文化に浸透しているパン食を「愛国的ではない」と暗に位置付け、日本中のパン屋さんおよびパン愛好家を激怒させるに至る。
このパン屋さん忖度事変は、特にパン食を好まない者にも不気味かつ間抜けな印象を与えた。パン屋を外した理由が、「西洋文化だから」「パンは外来語だから」というあまりにも短絡的な発想によるものだろうと容易に推測できるからだ。パンが西洋から伝来した食物である事実は間違いない。が、国民に愛される定番食として定着するまでには、それなりに長い歴史があることは周知の事実である。
パンは、いつ日本に伝来したのか。調べてみると、安土桃山時代(1573年〜1603年)に、ポルトガルの宣教師がもたらしたようだ。が、江戸時代(1603年〜1868年)のキリスト教禁教令の影響や、そもそも食べ慣れない味わいより、庶民の生活に浸透することはなかった。
明治時代(1868年〜1912年)の文明開化とともに、パン食の一般流通が始まった。当初は、イギリスから伝わった山型白パン等が、主に外国人向けに製造されていたそうだ。後、日本人による画期的な「和洋のハイブリッド発明」が国民の心と舌を魅了することとなる。
1874年、木村屋總本店の木村安兵衛とその次男で2代目の英三郎が、和文化である「あんこ」と西洋文化の「パン」を融合させたあんパンを考案。翌年には、今も健在である桜の塩漬けを乗せた木村屋独自型のあんパンを明治天皇に献上した。これが一世を風靡し、日本人ならではの発想の菓子パンや惣菜パンの普及を促す引き金となった。
ところで、「あんこ」はいつからあるのだろうか。聖徳太子の時代に中国より伝来した「餡=あん」は、皮の中に詰めるもの全般を差し、その中身は肉や野菜であった。つまり肉まんや餃子のしょっぱい具である。その餡が詰まった中国の饅頭を知った禅僧は、肉食を禁じられていたため、小豆(こちらも中国伝来)を代用した饅頭をこしらえた。
この小豆餡に、甘味が加えられたのが現在の「あんこ」である。甘味調味料の代表である砂糖は、奈良時代に、唐の帰化僧で日本の律宗の開祖である鑑真が日本に持ち込んだとされている。当初は医薬品として輸入されていたが、平安時代以降はお菓子や贈答品として扱われ、室町時代の茶の湯文化とともに和菓子の原型である砂糖飴や砂糖羊羹等が作られた。戦国時代には、南蛮貿易によって様々な国の砂糖菓子が国内に持ち込まれた。
砂糖は美味い。その魅力に取り憑かれた日本人は、国内で金銀が豊富に採れた経済力にものを言わせ、諸外国より高額の砂糖を輸入し続けた。ついに金銀が尽きた江戸の鎖国時代には、サトウキビを原料とした砂糖の国内生産に執心した。かくして庶民の手に入りやすくなった砂糖は、明治時代中期の日清戦争後、日本領となった台湾での糖業開発を経て、本格的に大量供給されることとなる。
つまり、日本人にとっての砂糖とは、異国より持ち込まれた文化である。それを様々な時代の日本人が、現状の国の食文化や生活と照らし合わせたうえでアレンジし、柔軟に融合させてきた。国内で砂糖を生産するための知恵も、諸外国の製糖技術を学ばなければ発展し得なかった。その経緯を思えば、砂糖をふんだんに使う現在の「和菓子」は、唐と西洋と自国の文化のハイブリッドである。