「和菓子」「教育勅語」「銃剣道」。明治時代のアイコンを取り沙汰する「現代道徳」の薄っぺらい愛国心

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たった58年で廃れた教育勅語は「伝統的精神」か?

 あんパンの発明から16年後の1890年、明治天皇による「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布された。その前年、日本国は大日本帝国憲法を公布し、東アジア初の近代憲法を有する立憲君主国として名乗りを上げた。

 明治以前の世は、藩主が土地や人民を支配する代表的君主政がまかり通っていた。その統治権を天皇に奉還し、天皇の下にある官僚機構の中央政府が土地、人民を支配し、直接的君主政を行う。それが国際的な近代憲法に基づく理念であると、国は定めた。国際的な近代憲法の柱は、フランス人権宣言を参照とした国民主権、国民の基本的人権の尊重、権力分立(三権分立)である。

 新憲法がいよいよ公布された翌年、「教育勅語」は大日本帝国における国民道徳や教育理念を明確化するために発布された。天皇制である大日本帝国の「道徳」とは、家族を重んじ、忠君愛国を誓う精神性であると示し、学校教育を通じて国民の思想にこれを定着させた。

 その後、日本は何度も戦争を起こした。忠君愛国の精神により、兵に取られた国民が、お国のために命を投げ出した。お国のために、敵国の兵士を殺し、土地を奪った。1945年、第二次世界大戦に敗れた大日本帝国は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下にて民主化を促進。1947年には、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げた日本国憲法が施行され、日本は民主平和国家となった。同時に、主権在君を説く「教育勅語」は、主権在民を訴える新日本国憲法に反するため、1948年に廃止。たったの58年間で廃れ、幕引きを余儀なくされた。

 その「教育勅語」を、道徳の再教育に力を入れる現政府は容認する構えを見せている。が、現在の日本は主権在君ではないので、もとより無効である。天皇制の大義名分の下に、その配下である中央政府が国民を統治していた時代と現代は異なる。天皇制のクッションなくして政府がダイレクトに国民統治を行う場合、主権在政府となり、民主主義に反する独裁政治となる。よって、国民は反発する。

 加えて、忠君愛国心は、戦争で大活躍した精神性でもある。それを教育の場を通じて国民に刷り込んだ明治政府の方法論は、ある種の洗脳教育とも言える。よって、気色が悪い。怖い。明治時代の人々が、前時代より残る封建社会の名残より、忠君愛国の精神を受け入れやすかったとして。民主主義の世で育った現代の日本人にとっては、そうやすやすとは受け入れがたい。

 だからこそ、現政府は「どういうつもりで、教育勅語を容認するのか」「まるごと復活させるのか、改定するのか」「改定するとすれば、どの部分か」「いかにして現在の道徳教育に反映させるのか」「教育には反映させないのか」を、はっきりと国民に明示するべきだ。その説明責任を果たさずして、「政治屋による政治屋のための答弁」にて、そもそも胡散臭い「教育勅語」をふわっと記号消費するから、ますます胡散臭くなるのだ。なぜこうも簡単な理屈が、分からないのか。

 また、「銃剣道」も明治に誕生した競技武道である。木村屋のあんパン誕生と同年、フランス陸軍の軍曹がフランス式の剣術、銃剣術を日本に紹介し、その10年後にはフェンシングの型の一部や銃剣術を本格指導した。しかし数年で西洋銃剣術は廃止。日本の剣術や槍術に基づいた軍刀術、銃剣術が制定された。

 昭和の戦時中の1940年、名称を「銃剣道」と改定。学校は児童に竹槍や薙刀の訓練を指導した。終戦後は、GHQが武道を禁止したが、占領を終えた後、警察署や愛好家が稽古を再開。自衛隊の体育にも採用され、現在は自衛官が行う競技武道として認識されている。

 つまり、スポーツである。現在の中学校の体育の授業に反映しても差し支えない。文科省は、そう安直に考えた。あるいは、お上の通達か。お上の「愛国心」に阿る得意の忖度か。いずれであっても、国民に向き合う気骨が一寸足りともない内向きの態度によって、「銃剣道」という物騒な記号がひっそりと新学習指導要綱に盛り込まれた。

 自ら志願して自衛隊に入隊した者が、納得したうえで競技を行う分には特に異存はない。が、「銃剣道」は「教育勅語」同様、明治より戦争に向かう時代性を象徴する黒アイコンである。それを学校教育の場で、一般中学生に指導するとなると、黒歴史の再生を思わせる。「いやいやスポーツですよ」と一言説明したくらいでは、国民は納得しない。「中学生男子を自衛隊予備軍扱いするつもりか」といった、余計な心配の火種も生む。スポーツであるならば、競技の危険性の有無、安全性の根拠を示してほしい。その肝心な説明を文科省がサボるから、国民の憶測、拡大解釈、不安感情が増長するのだ。

 国民に説明を尽くす必要がないとでも思っているならば、国民軽視にもほどがある。説明の必要性に気づいていないようなら、国民の安全を守る公人失格であり、「道徳心」がなさすぎる。そのような人間が「道徳」の再教育に力を入れ、教科書制作に携わる者が、軽やかに「パン屋」を「和菓子屋」に書き換える。

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