「女性は善良な男なんかに興味ないんだ!」と善良な男性たちは、話を聞いてくれる善良な女性にむかって、ビールをあおりながらわめく。(中略)でも、そういう男性たちをよく知ってみると、じつは、自分で思っているほど善良な人間ではないことが多いのだ。(カレン・ジョイ・ファウラー『ジェーン・オースティンの読書会』中野康司訳、ちくま文庫、2013年、94ページ)
女性はなぜ善良な男性を差し置いてワルばかり好きになるんだ? というのはしばしば男性の口から聞こえてくる疑問です。この疑問に対する答えとしては、上に引用した一節が最短にして最適の答え……かと思います。そもそも自分を善良だと思う時点で若干、うぬぼれのにおいがしますから、悪いとまではいかなくても感じは良くないですね。この疑問は女性には男性を見る判断力がないという偏見に基づいており、場合によってはうぬぼれのせいで自分が人に好かれないことを他人に責任転嫁するものであるとも言えるでしょう。
ワル(男も女も)の魅力は文学における重要なテーマの1つです。今回の連載では、この「女はなぜ悪い男にばかり引っかかるのか?」という問いをとてもうまく扱った作品、ジョン・ミリントン・シングの戯曲『西の国のプレイボーイ』(The Playboy of the Western World)を取り上げたいと思います。日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、1907年にアイルランドのダブリンで初演された戯曲で、英語圏では有名作です。今年は日本とアイルランドの外交樹立60周年記念です。アイルランドは優れた作家や俳優を輩出している地域なので、これを機会に是非、あまり知られていないこの名作をご紹介したいと思います。
※なお、この論考では、基本的に引用について原書はJohn Millington Synge, The Playboy of the Western World and Other Plays (Oxford University Press, 1998) を参照し、自分で訳しました。なお、日本語訳にあたってはジョン・ミリントン・シング『シング選集戯曲編-海に騎りゆく者たちほか』(恒文社、2002年)収録、大場建治訳『西の国の伊達男』も参考にしています。
父を殺せばあなたもモテる!
『西の国のプレイボーイ』はアイルランドの西の海沿い、メイヨー州の田舎が舞台です。ヒロインのペギーン・マイクはパブの跡取り娘で、飲んべえで頼りない父マイケル・ジェイムズにかわって店を切り盛りしています。そこへある日、南のほうから、父を鋤でぶん殴って殺して逃げてきたというクリスティ・マホン(タイトルの「プレイボーイ」)が転がり込んできます。
村人たちは警察に届けるどころかクリスティを勇敢だと持ち上げ、ペギーンと近所の寡婦クィンをはじめとする村の女たちはクリスティに夢中になります。ところがクリスティが父を殺したというのはただの勘違いで、実は大けがをしただけで生きていたマホンの親父さんが息子を追って村にやって来ます。これを知った村人たちは幻滅してクリスティをバカにし、恋人になっていたペギーンも愛想を尽かします。焦ったクリスティは勇気のあるところを見せようと再び父を鋤でぶん殴って殺しますが、実際に殺人を目にした村人たちは恐れおののき、クリスティを逮捕しようとします。しかし皆の目の前で死んだはずのマホンの親父はまたもや生きていました(マホンの親父は基本的に不死身です)。村にうんざりしたマホン父子は故郷に帰ってしまい、クリスティが去った後、ペギーンは「西の国でたったひとりのプレイボーイがいなくなっちゃった」(第3幕653 – 654行目)と嘆きます。
何度殺されても生き返るマホンの親父や、父を殺してモテまくる展開からもわかるようにえらいシュールなブラックコメディなので、今はこれを舞台で上演すると爆笑が起こります……が、本作がダブリンのアビー座で初演された時は演劇史上に残る暴動が発生しました。第3幕でクリスティが女性の「下着」(‘shifts’, 第3幕532行目)の話をするところで観客が猥褻だと騒ぎ始めたと言います。下着程度で大騒動とはずいぶん狭量だと思うかも知れません。しかし当時のアイルランドは英国の植民地でナショナリズムの気運が高まっており、全体としてこの戯曲は当時としてはセックスや政治に関して観客の神経を逆なでするような表現を相当含んでいました。愛国心の拠り所として理想化されがちなアイルランドの田舎を容赦なく諷刺したこの作品は、お客をイラつかせたのです。
なんで当たり前のように私と結婚できると思ってんの?
ヒロインのペギーンはパブの跡取り娘で財産が入る見込みがあり、機転も利く美人です。頼りない義父がもれなくついてくるという欠点はありますが、小さな村ではいかにもモテる条件を備えています。そんなペギーンにベタぼれなのが、親戚にあたるショーンです。ショーンは村人の中では比較的分別があり、敬虔なカトリックです。クリスティを危険人物として警戒し、ペギーンのことも心配しているのですが、一方のペギーンは、ショーンなど眼中になく、クリスティに夢中です。
これだけ見るとペギーンは「善良な男性を差し置いてワルばかり好きになる」バカな女性のステレオタイプそのままに見えるのですが、このお芝居はひと味違います。ショーンは最初からペギーンは自分と結婚するものだと決めてかかっています。ペギーンは全くショーンを好いておらず、「私がホントにあんたと結婚すると思ってるとはずいぶんな自信だね」(第1幕33–34行目)と聞きますが、ショーンはどこ吹く風です。ショーンはマイケル・ジェイムズに気に入られており、適齢期の男性で財産もあるというだけの理由で、自分は当然、ペギーンと結婚できるものだと思い込んでいるのです。これは最初の引用であげた「じつは、自分で思っているほど善良な人間ではない」男性の典型例ですね。自信のなさそうなショーンには、うぬぼれが潜んでいるのです。
さらにショーンには権威主義的なところがあります。第1幕の冒頭から、ショーンは教会のライリー神父の顔色ばかり気にしており、ペギーンに「ライリー神父の話ばっかり、うんざりするからやめて」(第1幕55–56行目)と言われています。この頃のアイルランドではカトリック教会が大きな権力を持っており、ショーンは基本的に教会の家父長的な権威に従います。強いものに弱く、女性の気持ちを尊重しないということで、見ているお客さんはペギーンがこんな男に惹かれないのは当たり前だと思うようになります。大人しくて人が良さそうなショーンですが、実際は男性中心的、権威主義的な世界観に毒されているのですね。
こんな村にはいたくない!
ペギーンがクリスティに夢中になってしまうのには、大きな理由があります。この戯曲におけるメイヨー州の村はどんよりした田舎として描かれており、村人はやる気がなく酒ばかり飲んでいます。そんな中で珍しくペギーンは活動的で、てきぱきと店を経営し、気の利いた悪口やからかいをポンポン言う生き生きした若者です。そんなペギーンにとってはこの村はつまらない場所なのですが、父を養い、パブを継がないといけないペギーンにはたいした人生の選択肢はありません。村の外に出て冒険をすることは許されていないのです。
そこに突然現れたのがよそ者クリスティです。アイルランドの南から来たというだけですが、おそらく村からあまり出たことのないペギーンの目にはエキゾティックに映ります。しかも父殺し、つまり権威に対して暴力で反抗した武勇伝の持ち主です。暴力がしばしば伝統的な「男らしさ」に結びつけられていること、さらにペギーン自身が父の面倒を見なければいけない立場にあることを考えると、クリスティは極めて男らしく、自分には許されていない自由と反抗の精神に溢れた青年に見えます。
そんなペギーンはクリスティに愛を告白する際、外の世界への憧れをこのように語ります。
私ね、ただの小娘だけど、自分で航海に出て黄金を10樽も持ったユダヤ人の男に出会って結婚したいなんてことをよく考えてたの。(第3幕299–300行目)
この台詞からは、ペギーンが海の彼方の世界を想像し、村人たちとは違うエキゾティックな男性との恋や富、冒険を夢見ていたことがわかります。ペギーンにとっては、クリスティは決まり切った淀んだ人生に抜け道を与えてくれる希望なのです。
この戯曲にはもう1人、村になじめない気概に富んだ女性がいます。それがペギーンの恋敵で前夫殺害疑惑のある寡婦クィンです。クィンはペギーンより少し年上で美人なのですが(第1幕595–596行目)、不仲だったらしい夫を殴り、その傷口が感染して夫が死んでしまったため、村では煙たがられています。父を殺したクリスティが褒めそやされる一方、夫殺しのクィンが嫌われているというのは男女の立場の非対称を示すもので、クィンはどうやら世間から女らしくない振る舞いをしたと見なされているようです。
クィンは第1幕で「神様は私がひとりで生きられるようにお作りくださった」(第1幕545–546行目)と豪語する気丈な女性で、ちょっとした財産もあり、とてもしっかりしています。しかしながらクィンもペギーン同様、因襲的な村に飽き足らず外の世界に憧れており、クリスティにこんな話をします。
縦帆の船や釣船、トロール船が海をゆくのを見て、毛深いいい男が向こうを航海しているんだろうなぁと思ったり、私は長いことひとりで暮らすんだなぁと思ったり… (第3幕537-539行目)
海の向こうにいるエキゾティックな男たちを夢想しながら田舎でひとりくすぶる自分の身の上を嘆くという点で、クィンはペギーンにそっくりの願望を抱いています。おそらく最初の結婚が相当に不幸で、子どもにも先立たれたというクィンにとっては、クリスティは自分同様、抑圧に対して暴力で戦った同類であり、しかも遠い土地から来た魅力的な男に見えるのでしょう。クィンがクリスティに惚れるのも無理はありません。
ペギーンとクィンはこの古風な村でただ2人、外の世界に対する憧れや夢を持っている人物ですが、お互いにいい印象を抱いておらず、とくにペギーンはクィンをひどく嫌っています。クリスティはこの2人にとって唯一の希望であり、ある種の稀少な資源のような存在です。2人は貧しい村でこの稀少資源を巡って争うライバルです。本来は似た者同士である夢を持った女同士が互いに争うほかなくなる状況を、この戯曲は皮肉と哀愁をこめて描写しています。
しかしながら、エキゾティックで反逆的な男の中の男であるはずだったクリスティは父を殺していなかったことがわかり、男らしさの魅力は崩壊していきます。さらに、話を聞くかぎりでは威勢が良く楽しかった暴力も、実際に目の前で起こると決して美しいものではなく、陰惨で残虐なだけのものであることをペギーンを含めた村人たちは知ります。
この戯曲の末尾では、暴力を男らしくロマンティックなものとしてとらえる傾向が辛辣に諷刺されています。ナショナリズムの時代のアイルランドの事情は21世紀とずいぶん違いますが、この芝居は活きのいい話が幅をきかせるポピュリズムの時代にも通じるテーマを扱っていると言えるでしょう。『西の国のプレイボーイ』は20世紀はじめのアイルランドの政治的状況を反映しつつ、伝統的な男らしさ、因襲的な田舎の村にくすぶる女性の不満、暴力の理想化などをシュールな笑いで諷刺した作品なのです。
参考文献
John Millington Synge, The Playboy of the Western World and Other Plays (Oxford University Press, 1998).
ジョン・ミリントン・シング『シング選集戯曲編-海に騎りゆく者たちほか』(恒文社、2002年)。
ジョン・ミリントン・シング『西国の伊達男』山本修二訳(岩波書店、1939年)。
ジョン・ミリントン・シング『The Playboy of the Western World』山本修二編(英宝社、1961年)。
カレン・ジョイ・ファウラー『ジェーン・オースティンの読書会』中野康司訳(ちくま文庫、2013年)。
木村正俊編『文学都市ダブリン-ゆかりの文学者たち』(春風社、2017年)。