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「男らしさ」に縛られていない若手俳優が、権力闘争に奔走する高校生を演じる痛快さ『帝一の國』

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しかも、この映画に出ている20代前半の(千葉雄大さんはちょっと年上ですが)俳優たちは、映画の中のような世界とは今のところ無縁のはず。実際、菅田さんは『情熱大陸』(TBS系)で、「小栗(旬)くんの世代って毎日飲み歩くじゃん」「そういう破天荒さは?」と番組の演出を手掛ける福田雄一さんから聞かれて、「いやーないですねー」と語っていたし(小栗旬さんは34歳で、彼を中心に30~40代の俳優たちが飲み屋で演劇論を熱く語り合う、という話は有名)、全編を通して縛られずマイペースな様子が印象に残りました。また、この映画のプロモーションで『ホンマでっか!? TV』(フジテレビ)に出たときも、千葉さん以外は、「かわいいといわれてもうれしい」「結婚したときに奥さんには自分の好きにしてほしい」と古い価値観に縛られない考えを語っていました。

世代だからなのかどうかはわかりませんし、20代前半の俳優たちだって実際には悔しさを感じたり負けず嫌いなところもあるのかもしれません。それでも、もはやかつてほどマッチョに競い合うような男性たちの価値観に縛られていないように見える彼らが、帝一たちを演じていることによって、我々は純粋な社会への風刺として映画を楽しむことができるし、痛快さを覚えるのだと思います。

その点においては、古屋兎丸さん原作の『ライチ☆光クラブ』とは、似て非なるものです。『ライチ』に登場するゼラ(古川雄輝)の場合は、14歳で全能感を持ち(ここに関しては帝一と似ていますが)、しかし若さと美しさを永遠のものにしたいということに縛られたために、破滅に向かってしまいました。そんな一瞬のきらめきを信じる少年たちをイケメン俳優が演じると、きらめいた存在である彼らと、破滅に向かうゼラたちに、どこか重なる部分があるように思えてしまい、見る側にも少しばかりの痛みがありました(破滅に向かうからということもありますが)。

しかし『帝一の國』は、物語の中身の少年たちが縛られているものに、実際に演じている俳優たちは縛られていません。それを見ている我々が知っているからこそ、現実とは切り離して映画をみることができます。そして、演者とキャラクターが離れていることで、この映画の中のシニカルな描写を完全に笑うことができるのです。

マウイと帝一が手放さなかったもの

もう一つ『ライチ』との対比で語るならば、『ライチ』では、ゼラのように何かに過剰に没入している人の演技はオーバーでメイクも濃くなっていて、反対にタミヤ(野村周平)のようにゼラの在り方を疑ってかかっている人は、ナチュラルなメイクで演技も自然なものになっていました。そして、ナチュラルなことで、そのキャラクターの「まともさ」が際立っていました。

今回の『帝一』でも、その違いはあります。正義の男である大鷹弾(竹内涼真)は、「まとも」でナチュラルなキャラクターです。カツラでもなく黒髪で、ハードなセットもしていません。そして、なぜか古屋兎丸さんの原作の映画では、こうしたナチュラルなキャラクターは、誰もが無条件で好感を持ってしまうようになってしまいます。それは『ライチ』でタミヤを演じた野村さんにおいても同じでしょう。

この映画では、『ライチ』とは違い、少年たちは破滅へは向かいません。それは、帝一の中にも「まとも」性が宿っているし(それは、帝一がときおり、ナチュラルな髪型になることでもわかります)、帝一が彼の国を作ろうとしている本当のモチベーションを知ることでも理解できます。しかも、彼は国を作ることを最後まで諦めることもありません。そこにおいては、『モアナ』でマウイがヒーロー願望に縛られなくてもいいと知ったあとも魔法の釣り針(つまりヒロイズム)を手放さなかったこととも通じるような気がするのです。
(西森路代)

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