「家族が怖い」映画
例えば、家長であることに異様な執着を持つ父親が、家族を私物のごとく暴力支配する『血と骨』(原作:梁石日、監督:崔洋一)。それは1930年に大阪に渡り、蒲鉾屋を開業した在日朝鮮人の物語であって、「美しい日本の家族観」を推したい愛国保守派や排外主義には「朝鮮人の気質の話」として一蹴されそうだ。が、家族という血縁者への執着の「暴力性」を表す作品としては好例と言える。
その原作者の梁氏が、タイでの幼児人身売買や売買春を題材とした小説『闇の子供達』の映画化作品(監督:阪本順治)は、親が金のために子を売る「家族の商品化」や、夫婦の性欲処理を目的に他者であるタイの子供との養子縁組を行う闇を生々しく描く。子供を性奴隷として虐待する養父の家長権をも、自民党や『日本会議』は許容するかどうか、意見を聞いてみたいところだ。
また、韓国のキム・ギドク監督は『メビウス』にて、夫の浮気を目撃した妻が、怒りに任せて息子の性器を切断する狂気と家族の崩壊を描いた。家族愛、夫婦愛、性について、衝撃をもって考えさせられる一方で、全編を「台詞なし」で撮りきるというギドク監督の意欲と覚悟にも感服させられた。
家族と性の最悪な連鎖について語るには、ジョルジュ・バタイユの遺作『聖なる神』を映画化した『ママン』(監督:クリストフ・オノレ)も欠かせない。近親相姦や、母による息子の精神支配も恐ろしいが、母の死に際してマスターベーションを行うエンディングの「生と性と子の悲しみ」には慟哭するほど打ちのめされた。「生と死とエロス。これを笑わずにいられるか」と仰ったバタイユ先生ならではの、精神の深淵を垣間見た。
母による娘の支配としては、エヴァ・イオネスコ監督が、実の母である写真家イリナ・イオネスコのモデル(ヌードを含む)を幼少時より務めた葛藤を自ら映画化した『ヴィオレッタ』もなかなか禍々しい。その他、古今東西を問わず、グレートマザーの呪いは、様々な映画作品に登場する定番テーマである。が、上記チョイスは、「生と性と暴力」の暗黒要素が強すぎるので、家族制とは「別の問題」として片付けられてしまう可能性がある。
それでは、地方の過疎化した田舎で暮らす母と息子の閉鎖感、他者との距離感を清潔に保てない息子の暴力性、暴力被害にあった来訪者のストックホルム症候群など、精神的に追い詰められた人間を描いた『トム・アット・ザ・ファーム』(監督:グザヴィエ・ドラン)はどうか。発達障害の息子と母の物語『マミー』等も含め、ドラン監督作品には家族と共生について考えるヒントが満載である。
しかし、いずれも「外国の作品だから」という理由で「美しい日本の家族観」を推したい方々には響かないかもしれない。なにしろ、この美しい日本では、道徳の検定教科書用に「パン屋」を「和菓子屋」に置き換える役人の忖度がまかり通る。「和、以外」を排他する愛国者やビジネス保守のポテンシャルを想像すると、やはり、無難に邦画をチョイスする方が効果的だろう。
家族映画の「良さ」の気持ち悪さ
昨今の邦画の近親相姦ものといえば、桜庭一樹原作の『私の男』(監督:熊切和嘉)が挙げられる。父娘の性行為および家族であることへの執着には、愛着障害の延長線上にある精神的な依存と、依存したところで満たされない根本の空虚さを感じる。当方はファザコンだが、父との性行為など想像するだけでも気持ちが悪い。だからこそ、父が男になる一線を超えさせるものは何か、考えずにはいられない。
死者の記憶を映像化して犯罪捜査を行う科学警察研究所の物語『秘密 —THE TOP SECRET—』(原作:清水玲子 監督:大友啓史)には、男を次々と誘惑しては殺す連続殺人鬼の女性が登場する。彼女は、父をも誘惑し、家族を殺し、その罪を父になすりつける。『渇き』(原作:深町秋生 監督:中島哲也)では、統合失調症の元刑事が、離婚して別居中の娘が行方不明になったと聞き、捜索するうちに娘がしでかした重罪の数々に巻き込まれていく。
『渇き』の娘はいわゆるモンスターだが、その心境の要因となる出来事が、原作では父親による娘への暴行、映画では娘の方から父にキスを迫り、父が拒絶するシーンとして表れる。その要因はさておき、実の子供が天然モンスターやサイコパスであった場合、通報し、しかるべき施設に救済を求めようものなら、「家族はお互いに助け合うべきである」と定めた憲法に違反することになるのだろうか。「家族の問題だから」という理由で第三者に助けを求められない場合、違憲どころか、命が危ない。
その他、生活や人権に関わる社会問題を反映している物語としては、実際にあったネグレクト事件を題材とした『誰も知らない』(監督:是枝裕和)や、東日本大震災後の被災地を舞台に、ネグレクト、虐待、機能不全家族、親殺しを描いた古谷実の漫画原作『ヒミズ』(監督:園子温)。突きつけられる事実、実景を前に、映画は所詮、虚構であるとたかをくくるわけにはいかない。映画のシーンは確かに演出だが、アパートの隣人や、近所の小中学校に通う児童が、日常的に家庭で見ている光景かもしれないと考えると、フィクションである、他人事であると静観してはいられない。
また、園監督の『紀子の食卓』には、実際の家族の崩壊とレンタル家族の対比により、何が虚で、何が実か、その境界線を今一度疑う気づきを得る。繋がりが濃く、距離感も近い血縁の家族よりも、繋がりは薄いが個人同士の相性が良く、信頼もできる他者との共生生活の方が安心できる人間もいれば、本来的な自分とは異なる人物として生き直す場所(ネットを含む)がなければ救われない人間もいる。
以上は、家族の暗黒要素を読み取る例だが、おそらく「美しい日本の家族観」を推したい方々には、洋画や近親相姦の例同様に「特殊なケース」と映ることだろう。また、「美しさ」には懐古および古き良き時代への回帰のニュアンスが多分に含まれている。現代社会の暗黒投影作を紹介したところで、「このように家族が崩壊したのは、父親が家長として家族組織を束ね、母親が夫唱婦随の良妻賢母として家族の世話をし、子は無条件に親を敬うといった『正しい家族』の役割分担を、『個』の自由の尊重によって各自が放棄した結果に他ならない。よって、今一度、正しい役割を各自が担ったうえで、正しい家族組織として一丸となって助け合う、古き良き日本の美しい家族を取り戻さなければならない」くらいは言うだろうなと想像する。
なにしろ、『日本会議』が推奨する理想の家族は『サザエさん』である。よって、昭和30年代の下町を描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』(原作:西岸良平 監督:山崎貴)や、同山崎監督による『永遠の0』(原作:百田尚樹)を筆頭とした「現代より振り返る戦争と家族」の感動物語を、「美しい日本の家族映画」と位置付けたいのだろうと推測する。余談だが、当方は、上記2作品が大嫌いだ。家族の表層や、悲惨な大量殺戮でしかない戦争を利用して感動を誘発するエンタテインメントの商売根性が胡散臭いからだ。「感動の家族愛」を軽々しく喧伝する空疎さが、ただただ気持ち悪いのだ。
良くも悪くも、悲喜もこもごも、一筋縄ではいかない家族の共生を描く映画として、忘れてはならないのは、山田洋次監督の一連の作品である(『おとうと』『母べえ』『母と暮らせば』『東京家族』等)。近作である『家族はつらいよ』は、タイトル通り、家族の微妙にしんどい言動が交錯する喜劇である。今月末にはシリーズ2作目が公開されるので、それを劇場で鑑賞した後、本コラムで紹介してみるか。
あるいは、「家族より他人の方が優しい」とぼやくお父さんがいかにも感傷的な『東京物語』(監督:小津安二郎)を題材に、前述の『紀子の食卓』『マミー』等を参照しながら、なまじ家族に期待したり、無理に共生するよりは、物心両面ともに離れた方が良いケースもあるのではないかと考察するか。
はたまた、団地暮らしの4人家族のもとに暴れん坊の家庭教師がやって来る『家族ゲーム』(監督:森田芳光監督)、前述の『トムアットザファーム』、万引きした娘をかばった見知らぬおっさんによって慎ましく暮らす家族が崩壊する園監督の『冷たい熱帯魚』等、家族に介入する第三者の存在意義を、良くも悪くも検証してみるのも一興だ。
枚挙にいとまがないので、このあたりで切り上げるとして。家族という切り口で映画を再考察してみるうちに、俄然面白くなってきちゃったので(己が)、次回以降、新シリーズ「家族映画批評(仮)」を展開することを勝手に決めた。今回のように列挙するのではなく、1作ないし数作に焦点を絞ってご紹介していきたい。みなさまがレコメンドする「不気味な家族映画」があれば、ぜひ、ご教示願いたい。最後に、一言。家族条項、絶対反対!
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