先日の5月17日は「多様な性にYESの日(IDAHO)」だった。IDAHOとは1990年5月17日に、世界保健機関が同性愛を精神疾患のリストから外したことに由来して生まれた国際的な記念日だ。かつては同性愛者をなんとかして異性愛者に「治療」しようという試みがあって、電気ショックや薬物療法やら、さまざまな矯正セラピーが行われていたのだけど、そういうことはもうやめようよと世界保健機関が宣言したのがこの日である。
IDAHOの正式名称はInternational Day Against Homophobia, transphobia and biphobiaで、直訳すると「同性愛嫌悪やトランスジェンダー嫌悪、バイ嫌悪に反対する国際デー」だ。嫌悪×3連発に、最後にだめ押しで反対がつくあたり、字面がなんとも強烈でなんとなく「夜露死苦」とかに近いものを連想してしまう。
このコワモテ路線からの転換には賛否両論あるのだが、私はIDAHOを「多様な性にYESの日」と意訳し、全国各地でのローカルアクションを呼びかけている団体の世話人をしている。ほのぼのとレインボーフラッグを振ってマイクをもち、公共施設などでカラフルなメッセージ展をひらく。街頭には思いがけない瞬間もころがっていて「国際同性愛嫌悪の日です!」とまちがってスピーチしてしまう仲間がいたり(意味が逆)、飛び入り参加のよっぱらいが「やすらぎは大切」などと語りはじめたりする。じっと遠くから見ていた高校生が、アクションの終盤になってクシャクシャになった紙を手渡してくれたこともあった。その紙を開くと「いつかは私も胸を張って生きたいです」と書いてあった。泣かせるやないか。
毎年この時期にあわせて国際LGBTI協会では、各国の同性愛者の法的状況をまとめた世界地図を発表している。2017年5月時点では、世界中で72カ国が同性間の性的関係を違法としていて、あからさまな排除が続く国も多い。2016年のトランスジェンダー追悼の日(11月20日)では、1年のうちに300人近いトランスジェンダーたちが新たなヘイトクライムによって殺害されてしまったことも発表された。それに比べれば日本はまだマシでしょ、と言われることもあるが、なかなか単純には答えられない。
日本社会でのLGBTの捉えられ方は複雑だ。テレビでこれほどオネェタレントがもてはやされる国もないが、当事者の孤立や排除は現存するし、自殺を考える割合も高い。国立社会保障・人口問題研究所の釜野さおり氏らの意識調査(2015年)によれば、同性婚に賛成する国民は半数を超えるが、身近に同性愛者や性別を変えた人がいたら嫌だと考える人も多い。「知人が同性愛者だったら嫌だ」と答えた人は男女ともに半数を超え、さらに「同僚が同性愛者だったら嫌だ」と答えた40代管理職男性は約7割にのぼる。身近だからこそわかってほしいのに、関係性が近くなればなるほど嫌悪感を示す割合は増えていく。なかなか心がえぐられる結果だ。
今月頭に行われたNHK世論調査でも、同性婚に賛成する割合は51%と高かったが、それと同時に夫婦別姓に反対する割合も54%だった。婚姻制度によりラディカルな変化をもたらすであろう同性婚のほうが夫婦別姓よりも指示されるのは意外だけれど、これは単に夫婦別姓のほうが身近なトピックで、同性婚については「自分とは関係のない人たちの話」と捉える人達が多かったから、という風にも読める。今後、LGBTがもっと身近な存在だと認識され、同性婚についての細やかな議論が始まったときには、世論調査の結果はどうなるんだろうか。
どこか遠くでやっている分にはご勝手に、だけど身近であればあるほど干渉しますよ、というのは、日本にムラ社会が息づいている証だ。個人の生き方はそれぞれの当事者が考えて決めれば良いという考え方はこの国ではまだ十分に根ざしていなくて、現在自民党が進めようとしている憲法改正の議論でも、第24条の「両性の合意によってのみ」から「のみ」を削り、個人の尊重よりも伝統的家族の価値こそを主人公とすえた結婚観を押し付けようという案が出ている。
日本のLGBT嫌悪について考えるのには、LGBT以外の場面で、そもそもこの社会が一人ひとりを異なる存在として認め尊重しているのかといった点も問われてくる。「多様な性にYES」というスローガンには、オーダーメイドな生き方をしようとしているストレートの人間もとうぜん含まれる。私が尊重される社会は、あなたも尊重される社会だと思うけれど、どうだろうか。