SOGIが差別の基盤?
何かを「普通」とみなす社会通念や、それを前提とした社会構造のことを、ノーマティビティと言ったりします。「ノーマ」は「ノーマル」の「ノーマ」です。
だから、SOGI概念を使うことの意義は「異性愛とシスジェンダーを優遇する現代社会のノーマティビティに対して批判を投げかけること」とも言えます。
私たちはSOGIという基準で勝手にカテゴライズされてるんだ、SOGIによって異性愛かつシスジェンダーの人たちが「この人たちだけは優遇します」と特別扱いされてるんだ、というわけです。
実際、性的指向(SO)によって人間の性のあり方を分類するようになったのには、たかだか百年ちょっとの歴史しかありません。それも「同性愛」は、「同性とのセックスをするような人間は、脳や精神医学上の問題を抱えているに違いない」と思った当時の知識人たちの、差別心のこもった命名でした。
そう、性的指向という概念は、初めから差別を目的に作られたものだったんです。
その後性自認という概念が加わり、今では先進国の多くで人間の性のあり方はSOGI基準で理解されています。これが未来永劫続くとは限りませんし、新たな基準が生まれたり、合体したり、消滅したりする可能性はありますが、少なくとも今のところ、私たちはSOGIという枠組みを使って人間の性のあり方を理解する文化に生きています。
この基準こそ、現在のLGBTその他に対する差別の基盤と言えるのではないでしょうか。
批判の力を削がれた「SOGI」に意義はあるか
SOGIが差別の基盤としての側面を持っているとはいえ、人間は周囲の環境に影響されて文化を形成するものです。差別を受ける当事者は、暴力の恐怖、社会的孤立、福祉のネグレクトなどの差別からも影響を受け、当事者独自の文化を築いてきました。
例えば、差別され孤立しがちな当事者同士だからこそ、強固な友人ネットワークが大事にされて来たという歴史があります。「家族」というものから突き放されたトランス女性やゲイ男性は、「ハウス」という独自のコミュニティを形成し、「母」「父」と呼ばれるまとめ役がメンバーを守り育てるというボールカルチャーを築きました。また、反差別の運動を通して連帯が生まれ、運動の戦略や技術が人から人へと共有されて来ました。
こうした文化をLGBTやその他の人々みんなが楽しんでいるわけでもなければ、内部の同調圧力に息苦しい思いをしている人ももちろんいます。いずれにしてもそこには豊かな歴史と文化があり、「普通」とされている異性愛かつシスジェンダーの人々の文化と違うところがたくさんあるんです。それがたとえ、差別の結果であったとしても。
SOGIは、一見中立な基準です。
全ての人を横並びにし、分類する概念です。
しかし実際には、一部だけを優遇するようなノーマティビティの力が社会全体に働いています。
このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって、SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら、どうなるか。
そこに残るのは、「みんな多様だよね」という、それ自体は確かに事実だけれど、そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには、差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は、受け継がれないでしょう。
「みんな多様、LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね、みんな当事者、みんな今のままでいい、個性だもん、社会なんて関係ない、互いに個人的に寛容になって、それぞれハッピーに生きよう!」
そんな風に、批判の力を失ったSOGI概念は、いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し、差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。
(マサキチトセ)