『夜空はいつでも最高密度の青色だ』 石井裕也監督
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に
探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。…」
「透明にならなくては息もできないこの街で、きみを見つけた。
悪い予感だらけの今日と明日が、少しだけ、光って見えた。」
「詩」は、個人的にもっとも苦手な分野とはいえ、それでも、これらの文章が心の一部を疼かすことくらいは、なんとなくわかる。最果タヒの詩集を元に映画化された今作は、東京を舞台にした若い男女の、今どき珍しいくらいまっすぐな恋愛物語だ。
昼間は看護師、夜はガールズバーで働く美香と、工事現場で日雇い労働をする慎二は、「東京には1000万人も人がいるのに、どうでもいい奇跡」を繰り返し、度々出会い、恋に落ちていく。美香は仕事仲間と合コンにいくことはあっても、ほんとうは孤独で、世界に期待していない。慎二は左目がほとんど見えない。決して多くはない収入から家賃を払い、光熱費や通信費を払い、同僚に連れられてガールズバーへ行く。ふたりとも自分を「変」だと思っていて、似ているがゆえに反発したり惹かれあったり、する。
あまりにも若々しく、見ながら苦笑いしてしまいそうになる青臭い世界を、40も近い私が深く共感することも、ガキは何もわかってないとバカにすることも、どっちにしてもヤバいことだと思うのだが、主演のふたりを演じる石橋静河と池松壮亮のふたりに、そのどっちにもつかない、圧倒的な魅力がある。
普段生活していると、まったくその魅力を感じなくなった「渋谷」や「新宿」、「東京」のどこかの夜景、そこにこのふたりが話しながら、黙りながら、くるくる回りながら歩いているだけで、じゅうぶんこの詩集が映画化された意味が理解できる(ちなみに詩集には、このふたりのような「主人公」は出てこない)。
はじめは病的に落ち着きなく話し倒す慎二が映画が進むにつれだんだん無口になっていくのと反比例し、会うたび口数を増やしていく静香。とんちんかんな会話を重ねるほどに、ふたりのまわりにじわじわと溢れる「死」が確かなものになっていき、不安を隠せない東京での日常。死は職場にもご近所さんにも、びっくりするほどあっけなく現れ、そしていつまでもまとわりつく、かのように振る舞う。一方でそれは劇中に繰り返される「大丈夫、すぐ忘れるから。」というセリフによって、彼/彼女たちを遠くない将来、解放するだろうことも示唆される。つまり大人になれば、慣れていき、忘れることが出来るのだ。しかし、それまでのほんの数年の一瞬、本気でそういうこと(死とか絶望とか)に囚われる時期があること、そのときはそれが世界のすべてだと信じることが、ときとして、たったひとりの他人を信じる気持ちに結実することがある。
もう自分のそんな時代があったことも記憶の彼方に消え行ってしまいそうな筆者だが、この映画を見て、このふたりを見て、「そう言えば、そんなこともあったよね……」と目を細め、親のような気持ち(未婚子なしだけど)で見守りたくなった。そんな気持ちを言葉にするとき、言葉が意味以外の意味を持つとき、若い男女には詩と映画が必要なのかもしれない。
だが例えば、絶対に渋谷に野良の仔犬はいないし、冴えない路上ミュージシャンがメジャーデビューすることはない。だからこの映画は一種のファンタジーなんだと思う(そもそもフィクションだけれど)。こんな若者も、本当は東京に限らず、どこにも存在しないのかもしれない。でもあるいは、東京、いや日本に限らずどこにでも存在するのかもしれない。そのバカバカしさの中にある若者たちの誠実さが、この映画を最高密度の恋愛映画として成立させているのだ。