【第7回】トランス男子のフェミな日常 「逆境はおしゃれじゃない」

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 齢30にして初めて好きな人からバレンタインにチョコをもらった。胸に手を当てて正直に言えば、めちゃくちゃうれしかった。どれくらいうれしかったかと言えば、板チョコをひとかけずつ割り、一日ひとつずつ食べることにより幸福を噛み締め、さらに包装紙を捨てるのを躊躇するくらいだった。チョコが酸化した。

 とはいえ、素直に喜べることばかりでもなく、いまだに待ち合わせをするときには岡村靖幸を聞いてしまう。恋人がいる、などという由々しき事態は我がアイデンティティに対する重大な脅威である。とりあえずイヤホンを耳にはめて困惑する。……あぁ神様、私に爽やかさをください!

 トランスジェンダーが恋愛をするというと、相手がどんなセクシュアリティなのか尋ねられることがある。相手のセクシュアリティなんて特にこだわりはないと言いたいけど、相手がLGBTというムラの住人なのか、それともムラの外の人間なのかということは、なんだかんだ関係性を大きく左右してきた気がする。

 異性愛者との恋愛では、なかなか対等でいることが難しかった。なんと言ったって相手はマジョリティとして生きられたはずの人間だ。ふたりがマイノリティになってしまうのはいつも自分のせいだと思っていたし、結婚できないのは自分が女体に生まれたせいだと思っていた。「男に十分に見えないこと」は、あらゆる不利益を招く温床だという感覚が深くインプットされてしまっていて、それは拭おうとしても拭いきれない「染み」のように、ずっと大脳皮質部あたりにへばりついてきた。

 人間どうしが付き合うとき、だれかを選ぶのか、選ばないのか、ということはすごく素敵なことだし、残酷なことでもある。トランスに限らず、見た目がイケてなかったり、おしゃれじゃなかったり、障害があったり、金がなかったり、アダルトチルドレンだったり、なんらかの事情がある人たちは、それぞれ大小なりとも「染み」があって、不自由な大脳皮質部を抱えたまま、人間関係を築いているんじゃないかと思う。

 そんなの気にしないよ、と恋人に言われても、本人が引け目に感じて、なんでこんな自分と付き合っているんだろうと呻くような「染み」。この「染み」に対して、恋人たちはおそらく二つのアプローチができる。それは連帯責任制をとるか、24時間テレビ路線に走るかだ。

 連帯責任制では、恋愛は相手が存在してこそ成立するものなので、自分だけではなく、その人にだって「自分なんぞ」を選んだ責任はあるのだと押し付けることによって、片方が過剰に「自分のせい」にすることを防ぐ。大変なことが起きるのなら責任の半分は相手にあるし、本当はだれにも責任なんてないのだ。

 それに対する24時間テレビ路線とは「愛には**は関係ない」とか「**より人柄が好き」ということを全面的に打ち出すことにより、「染み」の漂白を試みる。トランスジェンダーの場合だったら「愛には性別は関係ない」とか「性別より人柄が好き」とかいう定番のフレーズが登場する。なんだかステキそうだし、打ち出し方によっては全米が泣いたりするのかもしれないけれど、純粋さの強調によって逆境を乗り切るというのもなかなか息苦しいよな、と思う。「だっておれたちこんなにマトモなんだよ」ということを自分たちに言い聞かせるよりも、もっとフツーにダラダラしたらいいのに。

 以前、ある場所で同性愛者を擁護しようとした人が「だって、知り合いのゲイカップルは二人ともイケメンで、とても仲が良いんだから」と口走ったことがあった。そんな風潮だからこそ、私は世界中のLGBTや、障害者や、その他もろもろの大脳皮質部に「染み」のある人たちが、安心してケンアクになれる社会が早く来たらいいのにと願う。

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