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上戸彩「誰かのために生きることで輝く」という妻・母としての模範回答と、小林麻央をめぐる視線の変化に共通するもの

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私は上戸さんの「誰かのために生きる、家族や友達のために頑張る」という価値観を否定しない。それもひとつの人生であり、生き方である。正直共感はできないし、自分はそういう生き方をしたいとは全く思わないけど、上戸さんのような軸を持って生きることも当人の自由である。それはそれ、これはこれ。だけどそれを私は“完璧な正解”だと思ってしまった。彼女のような価値観を、“美しき女性像”“素晴らしき母親像”であるとして、無条件に賛美・強要するような世間の空気を肌で感じるからだ。つまり、「誰かのために生きるなんてまっぴらだ」という価値観は不正解。

「子を持つ女性(要は母親)」は、当然のように自己犠牲精神や奉仕精神を求められる。そのことは、匿名の誰かの意見として提示されるインターネット掲示板(および、まとめサイト等)で広く可視化されたと思う。虐待やネグレクトしているわけじゃなくても、母親がエゴや欲望に素直になった瞬間を捉えては“ダメ母烙印”を押す“世間”が顕在化している。山田優然り、辻希美然り、安藤美姫然り。その決まり文句は「子どもがかわいそう」「子どもによくない」。10代の頃から好感度抜群だった上戸彩さんですら、201512月、産後数カ月で生番組の司会を務めた際には「旦那さんの稼ぎがあるのにこんなに早く復帰するなんて」とバッシングの声が上がったし、先日も他紙(スポニチアネックス)のインタビューで家族愛を語ったところ「育児優先は当たり前」とボヤ騒ぎ……。そしてこういった世間の抑圧が“著名人に対するネット批判”に限られてはいないことを、私自身も実際に妊娠・出産して育児をするようになってから痛感した。

子どもを預けている認可保育園で、「子どもにとって母親と過ごす時間は大切」と言葉をかけられると、正直つらくなる。子どもにとっては過ごしやすい良い保育園なのだけれど、私は正直、育児そのものより、世間(あるいは身近な人)の監視と抑圧がよほどストレスだったりする。先日亡くなった小林麻央さんに関する様々な見方からも、「女・妻・母がどうあるべきだと思われているか」がわかってしまう。闘病を公表し、ブログを開設して写真や文章を投稿していた頃、「ブログなんかより子どもを見ろ」という声が大きかった。一方で亡くなってからは「いつも自分のことより家族を思っていた女性」として美談が声高に語られている。どちらも同じインターネット上で。彼女自身やご家族がどうこうではなくて、遠く離れた場所にいる他人の見方がそのようだということだ。無関係な人たちが彼女に理想を投影しているのではないか。

上戸彩さんの言葉に話を戻すと、「誰かのために生きる女性」の美化は、容易に「女は下がれ」の人権侵害につながると私は警戒している。彼女の考えは彼女自身のために尊重されるべきだけれど、正解として提示されてはいけないものだと思う。また、インタビュアーの“女性が年齢を重ねても輝き続けられる秘訣”という問いもおかしい。若いうちは輝きを放つことが可能だが、年齢を重ねるとそうはいかなくなる、という前提に立っているからだ。何より上戸さんはまだ30代になったばかりだというのに。誰かのために生きなくても輝けるだろうし、そもそも輝き続けなくても構わない。生き方に秘訣も正解もないと思う。

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