民主主義は多数決とは違う。「学校教育は中立であれ」と指導する安倍政権の詭弁。

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Photo by pstmn from Flickr

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今の日本の政治状況を見ていると、まさに民主主義社会の岐路ともいえる状況です。この状況を引き起こした直接的原因は、安倍政権の憲法や法律をないがしろにし、国民主権、民主主義、自由主義をまったく尊重しない態度です。間接的には、私たち市民が政治に参加しなかったことが原因です。その結果、政治を一部の政治家、それも地盤・看板・鞄、いわゆる「三バン」といわれる「コネと金」のある世襲や地域の有力者にゆだね続けてきたのです。しかし、根本的な原因は市民が政治に参加してこなかったことよりも、政治参加のハードルがあまりにも高いこと、そして学校教育が市民(外国人も日本人も含めた民衆という意味で)に対して政治に参加することの意義や、参加方法を伝えてこなかったことにあります。

本来、学校教育と政治は切り離せない関係性にあるものです。義務教育はすべての子どもたちに、教育の機会を与える場所であり、子どもたちにとっては社会の仕組みを学ぶ場所でもあります。このように将来的に市民となるすべての子どもたちに、働きかけることのできる場所は、義務教育以外にありません。

日本は民主主義制度を採用していますが、市民がより良い政治を選択していくためには、精神的に成熟し、適切な政治的判断ができるだけの知識や情報を持っている必要があります。そうした前提条件を欠如した市民ばかりになれば、よりよい政治を選択するための投票行動はできません。しかも、政治家候補者というのは市民の中から出てくるものですから、市民全体の質が低下すれば、能力の高い政治家が出てくることもありません。つまり、民主主義を維持するには、将来的に市民となるすべての子どもたちに政治や社会について教育していくことが不可欠なのです。

そもそも民主主義とはなんでしょうか? ちゃんと説明できる人は大人でもほとんどいないのではないでしょうか。

民主主義を多数決と誤解している人を最近よく見かけますが、民主主義=多数決ではありません。民主主義、英語でいう「デモクラシー」はもともとギリシャ語の「人々の力」という意味ですが、近代以降デモクラシーは選挙における支配つまり、多数決による多数派の支配と誤用されてきました。しかし、もともとのギリシャ語のデモクラシー(紀元前五世紀ごろ)は、政治体制の種類を指す文脈で語られ、一人の王が治める王政や少人数が治める寡頭独裁などと異なり「人が色々なことをできる(capacity to do things)」体制を指す言葉として使われていました。「人々が治める」民主主義体制として想定されていたのは「多数派」かどうかではなく、個人、少人数、大人数まで想定して、一人一人が多様なことをできる政治体制でした。

こうして考えた場合、今の日本の状況は、ギリシャ哲学の想定していた「民主主義」とは随分と異なるものです。個人も、少数派も、多数派も、一人一人が様々なことをできる政治体制ではないからです。私という「個人」が政治にどうのこうのできるわけでも、多数派が投票したからといって具体的に政治が動くわけでもありません。政治家や官僚、それも内閣や官邸のごく一部のメンバーで社会や国家にとって重要な情報が独占され、政治上の優先事項や政策が決まっていく状況は、少数による支配体制である寡頭独裁の方が近いといえます。

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