対等な女を怖がる男たち~男の幻想に逆襲する喜劇『負けるが勝ち』

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階級も、良い女/悪い女の区別も、全部眉唾

 このお芝居が非常に面白いのは、我々が当たり前のように受け入れているいろいろな社会的区別を、単なる幻想に近いものとして笑い飛ばしているところです。ケイトは衣類や話し方を変えることで身分の低いメイドになりすましますが、ここでは生まれに基づく階級は習得した身のこなしの差異にすぎず、いくらでも演じたり装ったりすることができるということが示唆されています。ケイトは作中で令嬢→メイド→貧しい親戚→令嬢と3回も身分を変えており、ケイトが自分をどう見せたいかと、チャールズが相手をどう見たいかという2つの要素の組み合わせによってケイトが身に帯びる階級が決まっていきます。相手の階級をどう判断するかについてチャールズが採用した基準は非常に曖昧で、全く確実なものではありません。ケイトがチャールズに対して「私のふるまい」(第4幕第1場202行目)にはパブのメイドらしいところなどなかったのに、と言うところは、おそらくチャールズのあてにならない判断をからかっているのでしょう。チャールズは女の階級を正確に判断できないのに、それを基準に女を選ぶというバカげたことをしていたのです。

 さらにこの作品が問い直しているのは、良い女と悪い女の間にある社会的な区別です。チャールズが下の階級の女ばかり口説くのは、そうした女のほうが尻が軽いと見なされており、またセックスがらみの問題が起こっても男が責任をとらされることが少ないからでしょう。階級が上の男は、こうした女たちに対して優位な立場で火遊びを仕掛け、トラブルが起これば逃げることもできます。一方で上流階級の女の場合は純潔や身持ちの固さが尊ばれ、うかつに手を出すと責任を取らされます。チャールズの心には、階級が下で自分が手を出してもいいふしだらな女たち、つまり「悪い」女たちと、貞操を守ってやらねばならない「良い」女たちとの間に厳然たる区別があります。もちろん実際には性道徳と人格の良し悪しは全くの別問題なのですが、男性中心的な社会は性道徳や階級といったラベルだけで女の良し悪しを分けようとします。

 ケイトの変身はこの区別を非常に曖昧にします。ケイトはメイドに変装することについて、チャールズが「とりわけ気ままな女しか」(第3幕第1場242行目)相手にしないような男なのかもと言っていますが、ケイト自身は身持ちの固い良家の令嬢であるにもかかわらず、「とりわけ気ままな女」と思われるようなフリをすることを恐れませんし、やすやすとそうした性質を演じます。男社会から「良い女」と見なされている女が「悪い女」のフリをするのは演技で可能になりますし、その逆も真で、この区別は常に揺らいでいます。ケイトの変身は面白おかしいものですが、裏には女を二種類に分けようとする男社会の考えをも笑いのめす、辛辣な諷刺がひそんでいるように見えます。

 18世紀の観客がこうしたことを考えてお芝居を観ていたかはわかりません。全体的にあまりにも面白おかしいので、こんなことを考える間もなく楽しめます。しかしながら、『負けるが勝ち』は爆笑とロマンスの裏にいろいろな可能性を秘めた作品だと思います。どこか日本でも上演してくれるといいのですが……上演するなら、チャールズはミサワ風か、あるいは恋愛工学の藤沢数希風でお願いします。

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