「私、子どもは産まないつもりなんです」と口にすると、だいたいの場合返ってくるのは「そのうち産みたくなるよ」という言葉です。「まだ若いんだから」「これから考えも変わるだろうし」「産んでみるとなんとかなるもんだよ」「そういう人ほど子どもが産まれるとかわいがるんだって」。どれもなぜか「産むのが正しい」という前提があるように感じられて、いつもモヤモヤしてしまいます。じゃあ私が今「産みたくない」と言っているのは、ただの気の迷いだっていうこと? 世の中では、「子どもを産みたい・産める女性」しか存在しないことになっているのではないか?と思うこともしばしばです。
産みたい人、産みたくない人、産むか産まないか悩み続けている人。誰もがさまざまな事情で、さまざまな選択をしているはずです。なのに、「正しい選択」をしなかった人の声は、聞こえなかったふりをされる。かといって「子どもを産みます」と宣言してみたところで、この国では驚くほどに子育てがしにくい。何を選んでも地獄じゃないか、と感じることすらあります。
誰しもがそれぞれの事情を持ち、それぞれの選択をしているのだということ。「多様性」という一言で片付けてしまうのは簡単ですが、実際のところ、自分と異なる立場にいる人の声を聞く機会は、それほど多くありません。そのために、ときには悪意なしに他人を傷つけてしまうことだってあるのですし、それは多数派であっても少数派であっても同じです。『私、子ども欲しいかもしれない。』(平凡社)は、長らく「産む・産まない」の間を揺れ動いてきた著者・犬山紙子さんが、産みたい人、産みたくない人、悩んでいる人、働きながら育児をしている人、専業主婦の人、同性愛の人……と、さまざまな立場の人に取材をして集めた「妊娠・出産・育児の“どうしよう”」を、自身の体験とともに収録した本です。
著者の犬山さんは、出産や育児のプロなどではもちろんありません。33歳のときに夫のつるちゃんと結婚、「子ども欲しいかもしれない、でもやっぱり子どもいなくてもいいかもしれない、どうしよう!?」と悩み始め、34歳で妊娠しては悩み、35歳で出産をしてはまた悩み……というふうに、とにかく悩み続けています。読者と同じように自信が持てずに右往左往したり、不安になったり、恥じ入ったり、反省したり、勇気を振り絞って決断したり、社会の無理解に対して憤ったりする犬山さんの筆致は、冷静であたたかく、どんな立場の人にも等しく寄り添うものです。
“その人の選択”を、手のひらで包み込んだ本
「子どもを持つこと・持たないこと、そしてそれについて思い悩むこと」というのは、とても繊細なテーマです。それを都合がよく飲み込みやすい形にぎゅっと握り固めてしまったり、「これが幸せだ」「これが不幸だ」と読者に向かって勢いよくぶつけてしまったりするのは、一冊の本の“書き手”という力を持った存在にとって、あまりにもたやすいことのはず。ですがこの本からは、著者が自身のもとに寄せられた“どうしよう”の声を、そしてそれぞれの選んだ生き方を、最大限の敬意と思いやりを込めた手で包み込み、読者の元に届けようとしてくれていることが伝わってきます。
「どうして子ども産まないの? せっかく女に生まれたんだから産みなよ」。できればあまり聞きたくない言葉だなと思っても、そういうことを言う人はほとんどの場合が「善意の人」なので、黙ってやりすごそうと思ってもなかなかうまくいきません。かといって「家庭環境のせいで、自分の遺伝子を後世に残したいと思えない」「自分が母親になることに耐えられないし、子どもに自分の影を見たくない」「身体が弱く、妊娠や出産で体調や精神面での変化に耐えられる気がしないし、子どもにも体質が遺伝するのではないかと不安」といったそこそこ重たげな理由を説明しようものなら、相手にいらぬ気を遣わせてしまうことが目に見えていますし、「無神経なことを言ってしまったのでは」と嫌な思いをさせてしまう恐れがあります。それに、子どもが欲しいと思っている人や、実際に子どもを産み育てている人たちが聞けば、自分たちの生き方を否定しているように感じられる言葉かもしれません。
子どもを産み育てるという誰かの選択を否定するつもりはないし、自分が子どもを産みたいと思えない状況について、同情をしてほしいわけでもありません。こちらの事情に土足で踏み込んでもらいたくないだけで、変に恐縮されたいわけでもないのです。ただ、こういう考え方・感じ方の人間がいることを認めてほしい。人類なんて滅んでしまえと思っているわけではないし、子どもだって嫌いではありません。子を産まない自分たちにできること、逆にしてほしくないことがあるなら、それをできる限り知らせてほしいし、学んでいきたいと思っています――こんなふうに話をして、自分の状況や思っていることを過不足なく伝え合うというのは、とくに自分と相手が異なる選択をしている場合、なかなかに難しいことなのだと思います。
この本のカバーには、ベンチに腰掛けて談笑する女性たちのイラストが描かれています。子どもを連れている人、連れていない人とさまざまな立場の女性たちがいる中で、ひとりだけ、誰とも会話をすることなく、スマートフォンの画面を見つめている女性がいるのです。きっと彼女は、すぐそばにいる見知った人ではなく、どこか離れたところにいる、顔も知らないような誰かと対話をしているのでしょう。目の前にいる人には、言いにくいこともある。だけど、画面を隔てた先や、ページをめくった先でなら、伝えられるし、受け止められることだってあるかもしれない。自分の選んだ道と、他人の選んだ道。ひょっとしたら交差することすらないかもしれない両者を、尊重し、信じさせてくれる誠実な手のひらによって、この本は書かれていました。