「フェミ? わかってるよ」に奪われた連帯を再び取り戻そう/河野真太郎『戦う姫、働く少女』

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 私たちの社会と文化で、女と労働はどのように描かれているだろう? 河野真太郎『戦う姫、働く少女』(2017年、堀之内出版)はこのシンプルな問いを中心に、『アナ雪』から『トップ・ガールズ』、ジブリ映画から『逃げ恥』、はては『家政婦のミタ』から『インターステラー』へと、一見無関係な作品を縦横無尽に飛び巡る。

 こうしたポピュラー・カルチャー(著者の言葉を借りれば「共通文化」)を通じて、21世紀の女と労働の関係をわかりやすい言葉で紐解く本書は、けれど同時に「わかった」つもりでいた映画やドラマを「わかっていなかった」ことを私たちに教えてくれる。それは知的なワクワクであると同時に、あり得るかもしれない未来を想像させてくれる、とても挑戦的な文化の読み方の第一歩だ。

ポストフェミニズムは「働く女」の物語?

 それじゃあこの本がディズニー映画やジブリ映画などの「共通文化」を通して読もうとしているものはなんだろう?

 それは一言で言えば、私たちの生活を取り巻くポストフェミニズムという状況だ。ポストフェミニズムという言葉は様々な意味で用いられるけれど、ここでは「稼ぎ主である夫と専業主婦の妻、という制度的な性差別に基づいた福祉国家への異議申し立て」という第二波フェミニズムの要求が新自由主義に取り込まれ、「個人としての女性」の競争に置き換えられてしまった状況を意味している。日本で言えば1986年の男女雇用機会均等法などによって、教育の権利や働く権利の平等が達成されたということにされた以上、あなたの成功も失敗も女の社会的地位ではなくてあなた個人の問題ですよね、というわけだ。

 当たり前だけど、競争のための機会の平等が与えられたからと言って(現在の日本ではこれすら疑わしいけれど)、誰もが仕事や愛や家族の「すべてを手に入れた(have it all)」理想的なポストフェミニストになれるわけじゃない。平たく言えば、ポストフェミニズムは負け組と勝ち組という二種類の人物像を生産する。その好例は『アナと雪の女王』だ。

『アナ雪』がみごとなポストフェミニスト・テクストになっているのは、この作品が二つのタイプのポストフェミニストを、姉妹という形で表象するからである。つまり、ここで検証したい仮説は、アナ=負け組ポストフェミニスト、エルサ=勝ち組ポストフェミニストという図式である。アナはブリジット・ジョーンズであり、エルサはサンドバーグ[フェイスブック社の最高執行責任者]である、と言えるかどうか。

 ただし、と著者はすぐに付け加える。こうした「戦い」の勝ち組と負け組という対立図式は、ポストフェミニスト状況のすべてを表しているわけではない。王女であるアナにしろ、出版社をやめてあっさりテレビ局に再就職するブリジットにしろ、苦役としての労働や貧困を本当の意味では経験していないからだ。

 ポストフェミニスト状況で女が分断され、女同士の連帯が困難なものとして描かれるのは、労働や貧困の問題がカッコに入れられるからだ。あるいは働く人自身にとっても「労働」と考えられないような労働(ベッドで業務メールをチェックすることなど)が広がった結果、「労働」がまるでないかのように取り扱われ続けるからだ、と言ってもいいかもしれない。賃金格差のもとで搾取を受けながらも働き続ける女たちにとって、エルサやサンドバーグの物語はもちろんアナやブリジットの物語も、「私たち」の物語では、ない。

 だからポイントは、私たちの文化が労働をどのように描いてきたか(あるいは描いてこなかったか)ということになる。本のタイトル後半にもあるように、「働く少女」は『おおかみこどもの雨と雪』『千と千尋の神隠し』などの映画や『逃げるは恥だが役に立つ』といったドラマでどのように描かれているだろう? そしてこうした労働の描かれ方(あるいは描かれなさ)は、フェイスブックでのアイデンティティの管理や、やりがい搾取問題といった、私たちが日々目にする現代の女と労働の関係をどのように照らし出しているだろう?

「(ポスト)フェミニズム?ああ、あれでしょ、知ってるよ」

 ここまで聞くと、本書を未読の方にも何となく「ああ、こんな話ね」とイメージがわいているかもしれない。

 『逃げ恥』とはやりがい搾取や家事労働賃金の話で、『千と千尋』は介護やセックスワークを含むケア労働の話だ、なんていかにもありがちだし、どこかで聞いた話に聞こえる。一億総批評家なんて言われる時代、SNSを始め多くの場所で似たような「批評」にはお目にかかる。斎藤環の名著『戦闘美少女の精神分析』(2000年、太田出版)を知っている人には、そもそも『戦う姫、働く少女』というタイトル自体どこかで聞いたものに思えるかもしれない(ちなみに本書でもこの『戦闘美少女』への言及はある)。

 そうした既視感のある議論と本書の違いを述べる前に一言断っておきたい。この「あああれでしょ、知っているよ」とわかったことにして退けるやり方こそ、ポストフェミニズムの典型的なやり口なのだ、と。

 批評家Angela McRobbieは『The Aftermath of Feminism(2009年、未訳) で「ポストフェミニズムは、フェミニズムを考慮に入れているものとして積極的に引き合いに出し、平等はすでに達成されていると述べる。それによってフェミニズムはもはや必要ではない過去のものだと主張するのだ」と語る。『戦う姫』での扱いとはちょっと違った言い方になるけれど、ポストフェミニズムとはフェミニズムを「あああれでしょ、わかってるよ(でももう男女は平等だし過去のものだよね)」ともう解決した問題だということにして退ける、一種のバックラッシュ状況でもあるのだ。

 『戦う姫、働く少女』の偉いところは、まさにこうした「(ポスト)フェミニズム? あああれでしょ、わかってるよ」と押しのける力に正面から立ち向かうところだ。『逃げ恥』がやりがい搾取の話だなんて誰にだってわかる……というかドラマの中で語られるし、『千と千尋』が湯屋でのケア労働での話だっていうこともちょっと気の利いた人にならすぐにわかる。

 けれどこの二つを並べて論じる本書を読み進めるうち、この二つが実はセットだったことをわかっていなかったと私たちは気づく。というのは、今まで無償で行われていたケアや家事労働が有償になること=ケア労働は、今まで賃金が払われていた・払われるはずだった「通常」の賃労働に賃金が払われなくなること=やりがい搾取と、シーソーの両端のような関係だからだ。つまり『逃げ恥』と『千と千尋』がコインの裏表なのは、生きることすべてが労働に変えられる私たちの社会で、有償労働と無償労働の区別がなし崩しにされているさまを照らし出しているからなのだ(本書の議論では『千と千尋』の湯婆婆の描かれ方を通じてさらに一ひねりが加えられるけど)。

 『戦う姫』を読んでいて何より楽しいところは、こうした「ああ、わかるわかる」から「あれ、やっぱりわかってなかった」に切り替わる瞬間だ。そしてこの楽しさは、本書を通じて著者が伝えたかった、文化を読む楽しさであるように思えて仕方がない。

 フェミニズムを通じて映画を観たり本や漫画を読んだりするのは、「この映画の女の描き方はケシカラン」と批判することだけじゃない(もちろんそれも重要なことではある)。「やりがい搾取」や「家事労働賃金化」といった大きなテーマに作品をあてはめて、「これってこういう話でしょ」とぶった切ることでもない。

 文化を通じて社会を見て、社会を通じて文化を読むこととは、今まで「わかっている」つもりだった文化や社会を「わかっていなかった」ことに気づいていくことだ。もちろんそれは単なる知的遊戯じゃない。ポストフェミニスト状況で「わかった」ことにされて押しやられたり歪められたのは、なにより(第二波)フェミニズムを貫く解放への衝動と連帯の可能性だったからだ。

他者の願望を受け取ってそれを実現させようとすることは、たんに自分個人の願望を実現させようとする場合よりも、はるかに大きな力を与える。それこそが連帯というものの意義だ。

 『戦う姫、働く少女』は、ポストフェミニスト状況で「わかった」ことにして退けられた、連帯の可能性を呼びかける声に貫かれている。言うまでもなくこうした連帯はとても困難なものだ。けれどこの本やそこで扱われている映画に何かを感じるとき、私たちは連帯の可能性に少しだけ気が付き始めている。
Lisbon22

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