「(ポスト)フェミニズム?ああ、あれでしょ、知ってるよ」
ここまで聞くと、本書を未読の方にも何となく「ああ、こんな話ね」とイメージがわいているかもしれない。
『逃げ恥』とはやりがい搾取や家事労働賃金の話で、『千と千尋』は介護やセックスワークを含むケア労働の話だ、なんていかにもありがちだし、どこかで聞いた話に聞こえる。一億総批評家なんて言われる時代、SNSを始め多くの場所で似たような「批評」にはお目にかかる。斎藤環の名著『戦闘美少女の精神分析』(2000年、太田出版)を知っている人には、そもそも『戦う姫、働く少女』というタイトル自体どこかで聞いたものに思えるかもしれない(ちなみに本書でもこの『戦闘美少女』への言及はある)。
そうした既視感のある議論と本書の違いを述べる前に一言断っておきたい。この「あああれでしょ、知っているよ」とわかったことにして退けるやり方こそ、ポストフェミニズムの典型的なやり口なのだ、と。
批評家Angela McRobbieは『The Aftermath of Feminism 』(2009年、未訳) で「ポストフェミニズムは、フェミニズムを考慮に入れているものとして積極的に引き合いに出し、平等はすでに達成されていると述べる。それによってフェミニズムはもはや必要ではない過去のものだと主張するのだ」と語る。『戦う姫』での扱いとはちょっと違った言い方になるけれど、ポストフェミニズムとはフェミニズムを「あああれでしょ、わかってるよ(でももう男女は平等だし過去のものだよね)」ともう解決した問題だということにして退ける、一種のバックラッシュ状況でもあるのだ。
『戦う姫、働く少女』の偉いところは、まさにこうした「(ポスト)フェミニズム? あああれでしょ、わかってるよ」と押しのける力に正面から立ち向かうところだ。『逃げ恥』がやりがい搾取の話だなんて誰にだってわかる……というかドラマの中で語られるし、『千と千尋』が湯屋でのケア労働での話だっていうこともちょっと気の利いた人にならすぐにわかる。
けれどこの二つを並べて論じる本書を読み進めるうち、この二つが実はセットだったことをわかっていなかったと私たちは気づく。というのは、今まで無償で行われていたケアや家事労働が有償になること=ケア労働は、今まで賃金が払われていた・払われるはずだった「通常」の賃労働に賃金が払われなくなること=やりがい搾取と、シーソーの両端のような関係だからだ。つまり『逃げ恥』と『千と千尋』がコインの裏表なのは、生きることすべてが労働に変えられる私たちの社会で、有償労働と無償労働の区別がなし崩しにされているさまを照らし出しているからなのだ(本書の議論では『千と千尋』の湯婆婆の描かれ方を通じてさらに一ひねりが加えられるけど)。
『戦う姫』を読んでいて何より楽しいところは、こうした「ああ、わかるわかる」から「あれ、やっぱりわかってなかった」に切り替わる瞬間だ。そしてこの楽しさは、本書を通じて著者が伝えたかった、文化を読む楽しさであるように思えて仕方がない。
フェミニズムを通じて映画を観たり本や漫画を読んだりするのは、「この映画の女の描き方はケシカラン」と批判することだけじゃない(もちろんそれも重要なことではある)。「やりがい搾取」や「家事労働賃金化」といった大きなテーマに作品をあてはめて、「これってこういう話でしょ」とぶった切ることでもない。
文化を通じて社会を見て、社会を通じて文化を読むこととは、今まで「わかっている」つもりだった文化や社会を「わかっていなかった」ことに気づいていくことだ。もちろんそれは単なる知的遊戯じゃない。ポストフェミニスト状況で「わかった」ことにされて押しやられたり歪められたのは、なにより(第二波)フェミニズムを貫く解放への衝動と連帯の可能性だったからだ。
他者の願望を受け取ってそれを実現させようとすることは、たんに自分個人の願望を実現させようとする場合よりも、はるかに大きな力を与える。それこそが連帯というものの意義だ。
『戦う姫、働く少女』は、ポストフェミニスト状況で「わかった」ことにして退けられた、連帯の可能性を呼びかける声に貫かれている。言うまでもなくこうした連帯はとても困難なものだ。けれどこの本やそこで扱われている映画に何かを感じるとき、私たちは連帯の可能性に少しだけ気が付き始めている。
(Lisbon22)
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