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「食」のエロさはどこにある? ご当地グルメポルノ化動画『頂』『涼・宮城の夏』の炎上で忘れられていた視点

【この記事のキーワード】

食のエロスは「正しいセックス」のレプリカじゃない

食物に性的な意味合いを見出すこと、もちろんそれはいいでしょう。どんな食べ物や物体、行為であっても、多かれ少なかれ性的な側面や魅力を持っているはずだと、私は考えます。おいしい食べ物はときに、たんなる食欲を超えた欲望をかきたてる形で私たちを誘惑しますし、すばらしい食事の体験は気の遠くなるような恍惚を伴うことがあります。しかし、ある食物を性器と見なし、食べる行為を性交の一過程と見なすということは、そのものに固有の魅力や可能性を削ぎ落とし、「性器」「性交」という狭い意味の枠に押し込めてしまうという結果になりはしないでしょうか。

『絶頂うまい出張』の動画では、ご当地グルメは男性器のメタファーでしかなく、「頂」は精液のメタファーでしかありません。各地で愛され育てられてきたご当地グルメを味わうよろこびや、仕事終わりにおいしいビールを飲むという体験の快さは、そこでは完全に無視されています。『涼・宮城の夏』におけるずんだ餅や牛タンも、それらが本来持っているエロティックな魅力は削ぎ落とされており、誰もが性的だと認める(ということになっている)女性器や男性器のレプリカ=下位互換としてしか、その価値を認められていないのです。

性的だと解釈されうるもの・ことのルーツを、男性器や女性器との類似性のみに求めてしまうこと。これは性器こそが「正しい性欲」の対象であり、それ以外のものは本来性欲を向けるにふさわしくない、ただの代用品であるということを意味します。ではなぜ性器だけが特権化されているのか? その根底にあるのは、生殖につながる男性器と女性器の結合こそが「正しいセックス」であるという考え方です。

メディアにあふれる「食事=セックス」、「食物=男性器あるいは女性器」という陳腐な記号化は、「男性器を女性器に挿入して、射精に至ることこそが正しい性交のモデルである」というこうした固定概念を人知れず補強してしまうものでもあります。もちろん世の中のすべての人が、異性との性器結合に重きをおいているわけではないはずですが、「この世の性的なもの・ことは、すべて異性間における性器結合の下位互換なのだ」という認識は、意識的であれ無意識的であれ、多くの人びとの間で共有されているように思います。この認識は、たとえば同性を愛する人に向けて「男(女)にもてないから同性に走ったんでしょ」「男(女)同士じゃセックスできないじゃん、どうやってするの?」「同性同士じゃ子どももできないのに」といった、無配慮な言葉を引き出させてしまうものではないでしょうか。

壇蜜のセクシーな囁きがなくたって、セックスのメタファーじゃなくたって、ずんだ餅も牛タンもとびきりエロい。それは決して、私たちをオーガズムに導いてくれるものではないかもしれないし、はっきりと一言で表せるものでもないかもしれません。ですがこの曖昧で「正しくない」性愛の形は、唯一無二の魅力を持つ、可能性と広がりに満ちたエロティシズムなのだと思います。
(餅井アンナ)

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餅井アンナ

1993年生まれ。ライター。食と性、ジェンダー、生きづらさについての文章を中心に書いています。wezzyでは連載「妄想食堂」などを執筆中。マガジンtb(タバブックス)にて心身の防御力低めな往復書簡連載『へんしん不要』も。食と性のミニコミ『食に淫する』制作。

twitter:@shokuniinsuru

http://shokuniinsuru.tumblr.com/

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