あれは三年前の春、ひとりで茨城県の水戸に遊びに行ったときのこと。駅前の歩道橋の階段をのぼっていると、向こうから家族連れと思わしき数人のグループがおりてきた。その中のたぶん最年少、おそらくまだ就学年齢前、推定年齢5歳の男の子が、すれちがいざまこちらを見上げ、「こんにちはー!」と元気いっぱいあいさつの声を響かせた。反射的に顔がほころび、「こんにちは!」と返す。すると。その男の子のうしろを歩いていた、おそらく彼の2~3歳年上のお姉さんと思われる女の子が、すかさずたしなめるように言ったのだ。「知らない人と話しちゃいけないんだよ!」
たった数秒間の出来事だったけれどいまでも忘れられないし、思い出すとみぞおちがギュッと縮こまって息が詰まる感じがする。当方、小柄な中年女性。そんなにエキセントリックな装いはしていなかったし、くたびれて不潔な状態だったわけでもないと思うし、いかにも危害を及ぼしそうな人間には見えなかったはずだ。それでも「知らない人」だという理由で、ほんの一瞬あいさつを交わすことすら避けるべきと、あの小さな女の子は判断した。つまり普段から周りの大人たちに「知らない人は危ないよ」と教えられているということ。ああ、この世界がそんなに他人を警戒する必要のない場所だったらよかったのに。ぼんやりしていても特に危険な目に遭う心配はなく安全で、人には優しく親しげにしてあたりまえだし、されてあたりまえだって前提で生きていける場所だったら。どうしてこんなことになってるんだろう。
人と人とがどんな風に関係を結ぶのか、その作法は土地や文化によって異なり、そのうえ常に変化している。近年では情報技術の進化を含む人々のライフスタイルの変化によって、古い枠組では捉えきれないような人間関係のありかたもいろいろと生まれているだろう。とりあえず言えるのは、全体的な傾向として、ひとりの人間が接触する情報の量、何らかのかたちで人と出会う機会は、20年前、10年前と較べても格段に増えているということだ(「終身雇用のサラリーマンと専業主婦」が家族のスタンダードで、一般庶民はネットを利用できなくて、電話は固定電話しかない世の中を想像して/思い出してみよう)。
そうやって他者との接触可能性が広がったことは、人それぞれ多様な人生のありかたを知り、互いに受け入れ共存するにあたって大きな助けとなっている。だがそれと同時に、こうした環境下で嬉しくない出会いの危険も増えたからこそ、「知らない人」に対する警戒心がますます強まり、同じ社会階層の者だけでかたまる傾向に拍車がかかって、分断が進んでいるようにも感じられる。
『知らない人に出会う』は、こうした現代のコミュニケーションと公共性の問題について、著者キオ・スタークが実際に街で交わした会話や先行研究を引きながら優しく論じ、知らない人に話しかけてみようと読者に呼びかける本だ。TED(本書によれば「アイデアを広めることに全力を尽くすNPO」)が開催するカンファレンスでの、「知らない人と話すべき理由」と題した短い講演がもとになっている。
ニューヨークのブルックリンに暮らすスタークは、小説『Follow Me Down(わたしを追いかけてきて)』、伝統的な教育機関の外で学びたい人のためのガイドブック『Don’t Go Back to School(学校には戻らないで)』などの著作のある女性。見知らぬ者どうしのあいだにつかのま生じる親密さに注目し、それは生きるうえで欠かせないものだと、さまざまな微笑ましい事例を挙げながら語る。だが、そうした数々の「良い効用」の話ばかりではなく、「知らない人」を安全かそうでないかを判断する必要性と、それを子どもにどう説明するべきかという難しい問題や、異質なグループが接触する際、そこにポジティヴな経験が重ねられていてもたった一度のネガティヴな全体をだめにしてしまい、結果的に不寛容を生むケースが多い、といった苦い調査結果も紹介しているあたり、地に足のついた誠実さを感じさせる。そこにあるリスクやデメリットを認めてこそ、「それでも閉じてはいけない」という主張に説得力が生まれるというものだ。
エピローグのあとに加えられた「街に出よう」では、「周囲の人を観察しよう」にはじまるいくつかの「試み」が提案されている。これを実践しようと思ったらシャイな性格を克服する以前に時間と気持ちの余裕が必要だ、みんなもっとヒマにならないとお話にならない、と日本社会が抱える問題を再確認させられたり、課題を設定してそれに挑戦するやりかたの利点と欠点について考えさせられたり。日本とアメリカの文化的な違いと、共通する今日的な問題が浮かび上がる。実際に自分が知らない人にどんどん話しかけられるかどうかはともかく、「とにかくこれだけは言える。知らない人に話しかけるのはいいことだ」というスタークの力強い断言を、いまは信じてみたい。