男が男を変えるべき。「社会が悪い」に逃げない「わたくしごと」の男性学を/『介護する息子たち』著者・平山亮さんインタビュー【2】

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『きょうだいリスク』(朝日新聞出版)『迫りくる「息子介護」の時代』(光文社新書)

きょうだいリスク』(朝日新聞出版)『迫りくる「息子介護」の時代』(光文社新書)

 今年2月に刊行された『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房)で、介護=ケアと、庇護される立場の男性性=息子性を分析する、新しいジェンダー論を執筆された社会学者の平山亮さん。前編では、近年注目されている男性学および「男性の生きづらさ」論の問題点についてお話を伺いました。後編では、この問題についてさらに踏み込みながら、男性が気づくべき社会における優位性と、男性問題を「わたくしごと」として引き受けることの重要性についてお話いただきました。

「俺だってつらいんだ」に終始する男性の生きづらさ論/『介護する息子たち』著者・平山亮さんインタビュー【1】

外の目が入りづらい家事育児は女性が不利になる

――SNSへの育児に関する投稿内容から、子どもに対する典型的な男女観がうかがえることも少なくなく、驚きます。男の子には車のおもちゃを与え、女の子にはかわいいワンピースを着せ……もちろん子育てに指標はある程度必要だと思います。しかし、親や周囲の大人が内面化している男/女らしさが子どもに伝わる、教育によって作られる可能性の大きさを考えたりもします。

平山 子どもは受け身的に男/女らしく「される」だけでなく、主体的にそうなる場合もあります。子どもは圧倒的に無力なので、サバイバルのために身近な大人の期待に必死に応えようとしてしまうからです。自分の生存を左右する親が、自分に男/女らしさを求めてきたら、子どもがそれを無視するのは難しいですよね。ただ、ジェンダーの「ふつう」を子どもに求めてしまう親の気持ちも、わからなくないんですよね。特に母親は、子どもに何かあれば、ほとんどいつも彼女たちだけが責められる。だとしたら「間違い」を犯さないように、子育ての指標を追い求めたくなるのは当然です。ジェンダーの「ふつう」も、そういう指標の一つですよね。男/女らしさの中身は時代によって少しずつ変わってはいますが、そういう区別自体はいまだにしっかり残っているので。

――仮に家庭でジェンダーを押しつけないように接しようとしても、学校など外から典型的な男女観を仕入れてくるという話も聞きます。

平山 つい先日も、小学校に入った娘さんが急に女らしさを意識しだしてショックを受けている、というお母さんにお会いしました。娘さんが女らしさに縛られないよう育ててきたつもりなのに、いつの間にか「(女の子だから)かわいい服じゃなきゃだめ」とか言い出すようになった、と。ただ、男らしさになじめずそれなりに悩んだ元・子どもの私からすると、「男/女らしさを気にしないように」と親に仕向けられたまま外の世界に放り出されるのは、なかなかしんどいですよ。大人でさえ抵抗が簡単ではないジェンダーのプレッシャーに、子どもが一人で立ち向かうことになるので。

私が自分の親に感謝しているのは、外の世界と折り合いをつけられるように助けてくれたことです。主流の価値観から逸脱していたことで、子どもの私はクラスメートと軋轢が生じたり、執拗にからかわれたりすることもありましたが、親はそういうときに「こうしてみたら」と一緒に考えてくれた。これは親に限りませんが、「男/女らしさにこだわらないように」とわれわれ大人が子どもに求めるのなら、それにいまだにこだわっている世間とどう付き合っていけばいいか、という部分でも、最後まで支えてあげる必要があるのではないでしょうか。

――母親になった女性向け中心のファッション誌『VERY』(光文社)で数年前、お弁当や料理の写真、家事育児の悩みをSNSに投稿して「いいね!」をもらうのが救いになると言っていた読者モデルの方がいました。SNSへの投稿は自己顕示欲だと揶揄されがちですが……。

平山 SNSが不安の解消に役に立つとしたら、それは良いことだと思います。例えば、自分はこういう価値観を大事にして子どもを育てたい、でも、それは必ずしも世間の「ふつう」ではなく、周りの家族や近所の人の支持も得られない。そういうとき、物理的にいつもそばにいてくれるわけではないけど、「それでいいじゃない」と認めてくれたり、相談に乗ってくれたりする人と繋がっていられる、っていう安心感は大きいですよね。もちろん逆に、SNSがなければ繋がることもなかった他人から、子育てに関して反対意見も含めいろんな情報をもらいすぎて、かえって不安が増すっていうこともありえますが。ただ、どちらにしてもSNSの影響力が大きいのって、さっきもお話しした親の責任が大きすぎる、っていうことに原因があると思います。責任は親ひとりに押し付ける状況はかわらず、SNSによってあれこれ口だけ出す人だけが増えるのは困ります。

――SNSへの投稿で家事が外部に見えるものになる一方で、現在主に女性が担う(担わされている)家事・ケア労働が「女性のもの」と強化される可能性もありますよね。家事の分担ってプライベートの話のように思えますけど、実は構造的な非対称性が原因だったりします。そうしたことが、外からの目が入ることでわかる可能性もあります。

平山 介護に関しては、外からの目が入りやすくなりました。介護保険ができたことで、ケアマネジャーさんをはじめ、家族以外のいろいろな人が関わることがふつうになったから。「プライベート」を盾にして、これまで隠されていた不適切ケアや虐待の問題も気付かれやすくなりました。そうした問題の被害になるのは、家族のなかで立場が弱く、声を上げづらい人たちなので、外からの目が入る意味は大きいです。でも育児は、家族以外が関わるのが一般的になる制度がまだないので、外からの目が入ってきにくいままですよね。前編で話した家事分担において男女が不均衡という問題もそうですが、家族や夫婦のなかだけで問題を解決しないといけなくなると、もともと押し付けられやすい立場にある女性がますます不利になってしまうんです。

自分の存在が誰かの脅威になっているかもしれない

――シスジェンダー(性別に違和感を持たない)・ヘテロセクシュアル(異性に対して性欲を抱いたり恋愛感情を抱く)男性が中心の社会で、男性に働きかける一方で、子どもへの教育も重要かと考えます。最近、報道でも目立つ性暴力に関しての反応などを見ていても、性交の同意問題、性の自己決定権、多様な在り方の包摂など、性教育がやはり肝心なのではと。

平山 男性の性欲は強くて「暴発」しやすい、だから、女性がそれを刺激しないように気をつけようとか、私たちが性に関して「これがふつう」と信じてきたことはたくさんあります。そういう「ふつう」の多くが、男性にとって都合よくつくられてきたフィクションだということを、きちんと理解してもらうことは大事ですよね。

――そういう意味では、親や周囲の大人からの何気ない「男の子は女の子よりワイルド、女の子は男の子より礼儀正しい」という価値観、もっと言えば妊娠中に、子どもの性別が女の子とわかると母親の顔つきに対して「優しくなった」みたいな物言いが、子どもに対して良い影響を与えないのでは、と考えたりします。

平山 そういう「ふつう」に沿って男女の関係をつくれば、女性が心身ともに無理を強いられてしまう。だから、「ふつう」の性を前提とした性の「自由」は、男性が女性を性的に搾取する自由にほかなりません。「自然」で「ふつう」の関係のなかには不平等があらかじめ織り込まれているんだ、ということ。そして、性の自由とは、本来そういう不平等を強いられないことなんだ、ということを、若いうちから徹底的に理解させることは必要です。

――平山さんは、『介護する息子たち』を書かれたきっかけを、女友達との関わりにおいて男女の「力の不均衡」を感じたり指摘されたことだと、あとがきで書かれていましたよね。

平山 私は小さい頃から、異性の友達に囲まれていました。でも、そうやって男の子がひとり異物として女の子の集団にいると、幼稚園や小学校の先生が明らかにやりにくそうだったんです。言葉遣いだったり、しぐさだったり、女の子だけならいくらでも「きちんとして」とまとめて注意できるのに、男の子にはそこまでうるさく言う必要がないと思っているからですよね。でも、そうやって「男の子なんだからそんなこと気にしなくていいよ」「男の子はがさつなくらいが丁度いい」みたいに、自分は気にしなくていい、周りが気にしてくれる状態を小さい頃から周りがつくってあげすぎた成れの果てが、今の男性のナチュラルな傍若無人ぶりを生んでいるんじゃないかと思っています。

ジェンダー論の大先輩のある大学の先生が先日、「男の人の身体が大きいのは生物学上しょうがない、でもこの身体で足を開いて椅子に座ったら邪魔じゃないのかな? って考える配慮はどこに行ったのかな?」と言っていました。これって、ジェンダー関係を考える上で、すごく示唆的です。身体のサイズと同じく、性に関する「ふつう」も、男性にとっては自分の意図とは関係なく、最初から自分の手元にあったもの。そういう意味では本人にとって「自然」なのかもしれませんが、だからといってそれに開き直るのは、パワーの濫用なんですよね。自分の身体のサイズが「自然」に大きいのなら、それと比較して「自然」にサイズが小さい人もいるはず。大きい人が開き直っていると、小さい人はひたすら我慢し続けなければいけません。自由って、そういう「自然」な状態で起こりうるパワーの違いを是正するための概念のはずなのに、「自然」な不均衡が原因で抑圧される誰かのことなんて気にしないで済むことを自由だと思っている人が多すぎます。

――まず男性にできることとして、電車の中で周りを気にして姿勢正しく座れ、と言いたくなりますね。それは前編でおっしゃっていた夫婦やカップルの話、身近な人、目の前の人に対してどう配慮するか、という話と通じます。無自覚にどーんと座ってたら邪魔だろっていう。

平山 自分の存在がもしかしたら相手を脅かしているかもしれない、居心地の悪い気分にさせているかもしれない、その可能性はないかな? と男性が気をつけて考えるようになるだけで、ジェンダー関係は変わり始めると思うんですよね。

――単純に、身体の大きい人が目の前にいて、威圧的な態度のつもりはなくても、何か言われると怖いと感じたりしますよね。

平山 そうそう、それはありますよね。身体の大きさの違いは意図的に生じたものではない。けれど、だからこそ、普通に頼んでいるつもりでも、相手にとっては威圧的になっているんじゃないか? と配慮して関わるのと、「おまえより身体がデカいのは俺のせいじゃねーし」みたいな態度で関わるのとでは全然違うわけですからね。

――男女間で対話ができないのはひょっとしたらそういった側面もありそうですよね。もう怖いから自分が気をつけよう、我慢しよう、と女性側が思って萎縮したり。

平山 女性が慎重になってしまうことはよくありますが、それを男性は「女の人が自発的にやった」「自分が無理にそうさせたわけじゃない」って言い切ってしまう。介護や家事などのケア役割についても、「別にカミさんにやれって命令したわけじゃねーし」と無責任になるのではなくて、どういう力が働いて女性側が「自発的」に担っているのか、少し考えてみてほしい。自分の目からは自発的に見えるものを疑うこと、見かけの自発性に開き直らない態度が必要です。

――無自覚な影響力と言えば、セクハラのことも思い出されます。セクシュアルハラスメントがセクハラと略され、軽々しく扱われているけど、「それって力関係の不均衡に基づく性暴力だからね」って思います。

平山 性的なニュアンスの言葉を言わなきゃセクハラじゃない、みたいな、ハラスメントを矮小化するような理解には辟易しますよね。重要なのは、構造上、立場上、圧倒的なパワーの差があって、相手の言動に拒否したり反論したりできない場合があるっていうこと。それに気付かない、あるいは気付こうともしないで自分の好きにふるまうことが、ハラスメントですよね。罵倒してないんだからパワハラじゃない、とかいう誤解・曲解もそうだけど、目に見える表面上の言動だけを取り上げて状況を都合良く解釈すること、それ自体が権力であり暴力なんだってきちんと理解してほしいですよね。

――ハラスメントは直接的な暴力や言動とは限りません。介護上の問題として、息子が親を気遣ったケアのつもりが、相手の意思を無視した暴力になる可能性を平山さんは書かれていましたよね。職場や学校でも起こり得ると思います。

平山 自分の意思とは関係なく持ってしまう権力に敏感になる、っていう、社会関係の当たり前があまりにもおろそかにされています。本書で言いたかったのも、そういう話なんですよね。悪意を持って脅かそうとしているかどうかではなく、意図とは関係なく、あなたの今のあり方自体が目の前の人を威圧したり脅威になっていないかっていうこと。それに一人一人が気づいて、意図とは別にできあがる力関係を恐れるところからしか、自由で平等な社会はありえないんです。もちろん意図を持って相手を脅かしたり搾取したりするのは論外です。

「男らしさのプレッシャー」を濫用する男性学

――力関係の差に無自覚な男性に考えさせるためにどうすればいいのか、ってことも考えなきゃいけない、というケアも女性はじめ立場の弱い側が担わないといけなくなるわけですもんね。

平山 それはやっぱり男の仕事ですよね。前編でもお話ししましたが、それを気付かせる役割を女性がしなきゃいけない限り、男性の優位は揺るがない。ジェンダー関係を本気で変える気があるなら、男性は男性に対して訴えていかないと。男性の抑圧性を指摘する女性に対して、一所懸命「自分は違う」「そんな男性ばっかりじゃない」と訴える男性がいますが、第一に、すべての男性がそうじゃないことなんて、女性だって知っています。第二に、自分は「そんな男性」じゃないとしたら男は「そんな男性」を何とかすればよいだけのこと。逆に、女性に訴えるばかりで「そんな男性」の対処自体は誰かに任せているのだとしたら、「そんな男性」の方には手を出さないという意味で、男性の抑圧性を黙認しているのと一緒です。

――そうですね、例えばいじめの現場で黙認する側にも加害性が生じる、ということに構造として似ていると思います。

平山 「ジェンダー平等な社会をつくるために、女性はもっとこうするべき」みたいな「助言」をする男性もそうですが、そうやって女性にばかり何かを訴える男性は、ジェンダー関係を変える上で意味がないだけでなくて、むしろ障害です。

ジェンダー関係を是正するための取り組みとしては男性学もありますが、少なくとも日本においては良い影響があったかどうか、わかりません。男性学は、「男はこうでなくては」というさまざまな期待のもとで男性があえいでいる抑圧を指摘するとともに、そこからの解放を訴えてきた、というまとめに異論を唱える人は少なくないと思います。ただ、繰り返し強調しているように、ジェンダー関係の是正のためには、男性がいつの間にか持ってしまう優位性に意識的になることが必要なんですが、男性の受ける抑圧にフォーカスする男性学が、そこをどう解決できるか、というのが見えてこないし、むしろ、そこのところに問題意識をもっているようには感じられないので。

――このあたりは前編でもお話が出た点で、平山さんは『介護する息子たち』で丁寧に批判されています。

平山 もう一つ、男性学が男性の受ける抑圧を主張することで、男性も女性と同じジェンダーの被害者である、という理解が浸透しつつあります。それは、男女の非対称性を問題にしてきたフェミニズムの取り組みとは必ずしも相容れないし、むしろ「男性=被害者」の図式を濫用して、男性のほうが差別されているんだ、というような、意図せぬ優位性をまったく無視した主張に力を与える結果になっています。今年の『週刊金曜日』(6/9号)での北原みのりさんの寄稿で指摘されているんですが、「男性=被害者」の主張は、現状のジェンダー構造を変えるために役立ったのではなく、(ジェンダー論やフェミニズムへの)バックラッシュに加勢しています。

――田中俊之さんは『男がつらいよ』(KADOKAWA)の中で、日本人男性の自殺率の高さを取り上げ、日本の過剰労働を紐づけて「男の生きづらさ」だ、とまとめているように読めました。自殺するほど男は追い詰められているのだと言わんばかりです。

平山 男性の自殺率は、もともとは、男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか? ということを問うためのデータだったはずです。例えば、男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ、という説明があります。つまり、経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である。自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつが、自殺なのだという説明です。つまり、自殺率のデータは、男性が支配の志向にこだわり続けてしまう問題を反省的に問うためのものであって、それを「生きづらさ」の指標にするのは適切とは思えません。過剰労働が心身を蝕む、という主張には賛成しますが、自殺率を「生きづらさ」の指標にすると、男性よりも自殺率の低い女性は、こんな性差別的な社会でも「生きづらく」ないということになります。田中さんもまさかそんなことは思っておられないでしょう。

――辛いから自殺に向かうんだと単純に説明する「男性学」がもてはやされる状況は、むしろ暴力的に見えます。もちろん、ある特定の男性の中には男性というジェンダーだけでなく、経済、障害、国籍、人種などさまざまな社会階層があって、それが深刻なダメージを生む可能性も重要な課題なので、そういう議論を、という話ならわかりますが。

平山 自分の言動を、社会による期待みたいな「外から来る何かのせい」にすぐに繋げるのは慎重になった方がいいです。男性学も本来は、自分のなかの何が原因なのか? っていう内省的な取り組みのはずだったのに、そこが省略されて構造に原因を求めるばかりで、かえって自分自身の志向を問い直す方向から外れてきている気がしますね。フェミニズム・女性学の姿勢を、私たち男性はもう一度真摯に学び直すべきですよね。男性は、フェミニズムが言語化してきた「社会による『らしさ』のプレッシャー」についてだけを濫用してきたように思います。

俯瞰に逃げない、「わたくしごと」の男性学を

――しかし、男性が圧倒的に多数の場所で、女性やマイノリティ側から声をあげるのは、エネルギーがいりますよね。大きい話ですが、国会議員の女性比率は一割を切っているし、新聞、テレビ、ラジオなど報道メディアも男性メインですよね。こうした状況で男女の不平等の問題がなかなか取り上げられづらいことにモヤモヤします。

平山 男性が優位の社会では、何かを訴えるときの「合理性」や「論理性」の判断も男性がすることになる。「合理的」で「論理的」じゃないから訴えが通らないのではなく、男性にとって受け入れにくいものが「ちゃんとしていない」という評価を受けてしまう、という男性バイアスがかかります。

――声をあげられる場面での男女比が不均衡な状況だと、マイノリティ側は異議申し立てしづらい。やはり力のある男性側から働きかけてほしいですね(もちろん少数派の男性には酷なのでは、とも思います)。

平山 女性に対して「言ってることがよくわからない」「論理的じゃない」「感情的すぎる」みたいに言う男性は、単に聞きたくないだけだし、そう言えてしまうこと自体が権力なんだ、という自覚をもつところから始めないとね。

――そう聞けて心強く思えました。平山さんの『介護する息子たち』は、そうしたいろんな根の深さを網羅して丁寧に解きほぐしてくれているからこそ、読むことへのハードルが高いのかもしれません。例えば本書での息子介護の特徴として、自分でなんでもやろうとしすぎるということがありますよね。でも、もっとケアを開いていけばいいのに、家族や近隣の関係に開いていかないという指摘とも通じると思いました。

平山 息子介護の問題の一つは、虐待率の高さです。私が息子介護の研究を始めたきっかけの一つは「自分も息子だから、虐待加害者になる芽を持っているのかもしれない」という恐れでした。でも、講演などの場所で出会う男性は大抵、他人事で、「そういう変な息子も多くて、そういう人が介護をやると困るよね」みたいに言うんですね。虐待する息子介護者と自分がもしかしたら地続きなんじゃないか、という思考がすごく希薄なんです。

――先ほどのセクハラの話もそうですし、先日話題になったジャーナリストの詩織さんが準強姦被害の告発をした際にも、確かに他人事と考える人は多い印象でした。

平山 女の人がノーと言えない立場上の力関係を考慮せず、相手が同意したと思い込むっていうのは、カップルの間でもふつうに起きていて、性犯罪の加害者は決して自分と遠い存在じゃない。男性による性犯罪が起きたとき、「レイプする男は許せねえ!」とか言って、加害者を自分と切り離して怒るのではなく、自分が普段している行動と照らし合わせて考えてみてほしいですね。男性が当事者性をもって性犯罪の問題を見ない限り、この問題は解決できません。詩織さんが問題にしようとしていた性犯罪に対する司法のあり方についても、「法制の問題だから」と遠い話にするんじゃなくて、被害に遭った女性がここまでしなくちゃいけない社会を変えようとしてこなかったのは自分たちなんだ、と当事者性をもって考えていかないと。

――現在の司法制度では女性が訴えづらい、訴えても退けられやすい、という構造的な問題ですね。個人として身近な問題として向き合う姿勢と、構造的な問題を分けて考えないといけないけれど、メディアの事件報道は、センセーショナルに取り上げがちで、他人事としている感じもあります。

平山 切り離さないで欲しいですよね。性犯罪の報道にしても、特殊な男性が起こした事件として「あんな酷い話が!」と怒る前に、同じ男性である自分と重なるところは本当にないか? と考えて欲しい。他人事ではなく「わたくしごと」として欲しいですね。

――客観的であるべきだっていう考えが良しとされている風潮にも通じそうですね。「感情的にならずに」と諭す物言いがあっても、それでも感情的にいやだ! と思うことはあるし、してもいいはずですよね。

平山 そうそう。フェミニズムがやってきたことって、他の女性が抱える問題を「他人の問題」として切り離して見ず、「これは、この社会で女性として生きる者の問題だ」「だから私自身の問題なんだ」と、「わたくしのこと」として引き受けるところから始まったんですよね。そして、主観的と言われることを恐れず、当事者性ばりばりでやってきた。でも、男性が男性問題を考えるときって、「わたしとは違う男性が起こしてしまった問題を、彼のようになるはずのない男性のわたしが解決してあげる」という姿勢が目立ちます。そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れているという価値観から、男性は全然抜け出そうとしていないです。あれもこれも「わたくしのこと」として考えるのって、めちゃめちゃ痛いことだけど、男性問題への見方を変えるところから始めないと、男の人が変わるきっかけってないと思います。
(取材・構成/鈴木みのり)

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