性暴力被害に押し付けられる「かわいそうな人」か「聖人」というドレスコード。私は好きな服を着て生きていきたい

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何を着てもいい。Photo by lil’_wiz from Flickr

 前回は誰もが持つ「枠」について、セカンドレイプや私の経験を通じてお話しました。今回は実際に活動をしていくなかで感じた「枠」について考えていきます。

 性被害に遭った影響で体調や精神状態に波はあったものの、私は2009年からセミナーやイベントを運営したり、経験を発信したり、被害に遭った方の話を聞いたりと、性暴力に関わる活動を続けてきました。そのなかでたくさんの両極端な物の見方や考え方に出会い、葛藤してきました。特にそれを強く感じた3つの場面を挙げていきます。

 まずひとつは、性の情報についてです。性の話は性暴力・ジェンダーのような性の問題や妊娠出産といった生殖の話か、エロの文脈の娯楽コンテンツとしての性の話か、このどちらかの文脈で語られます。

 学校での性教育は生殖や出産についてが中心で、性行為についてはAVや漫画などの娯楽コンテンツから学ぶしかない……ここにも両極端な状況があります。エロの情報やネタはあふれていますが、娯楽コンテンツはあくまで娯楽として楽しむものであり、正しい知識でも教科書でもありません。

「性暴力はダメ」では伝わらない

 近頃ジャンプの性表現が話題になり、「普通はフィクションと現実の区別はつく」という意見が聞かれました。本当にそうでしょうか? 性に関する話題はネタとして以外に、身近に触れる機会も語ることもなかなかありません。そんななかでは何が性暴力で、何がそうではないのかがわかりません。性や性のコミュニケーションについて共通認識を持つ機会が少ないことから、知識が人によってばらつきすぎているので、何をしてはいけないのかというラインを見極めることが困難なのです。

 結果、人と関わるうえで大事な、互いを尊重するというコミュニケーションが、セックスになると適応されず、「嫌がっているように見えても本当は喜んでいる」といったようなセックスに関する暗黙のルールができている状態です。

 私が関わる性暴力に関するイベントに来てくれたり興味を持ってくれたりする方のほとんどはとても真面目で、真剣に考えてくれました。しかしそんな状態だからこそ、「性暴力をしてはいけない」というだけでは真剣に考えてくれている人にしか伝わりにくいという現状があります。

 性暴力と聞くと身構えて距離を置いてしまう人、自分には関係ないと考えている人が多くいます。自身や身近な人の身に振りかかり深刻になってから初めて、自分ごとになります。それは前回でもお話したとおり、それは前回でもお話したとおり、性暴力に遭う人は“普通”ではないと思っているからです。こうしてセックスについてや身近な性についてコミュニケーションを取ったり、正しい知識をつける機会が持てない現状が性暴力を招くことになるのではないかと思うようになりました。

詩織さんが求められたドレスコード

 ふたつめは、被害者像についてです。私のように被害当事者であるとオープンにしたうえで人前に出ると、「傷ついて弱くてかわいそうな人」か「乗り越え、悟った強い聖人」か、どちらかのイメージを求められます。

 フリージャーナリストの詩織さんが今年5月に記者会見を開いて準強姦の被害体験を告発したとき、その振る舞いや服装が話題になりました。それに対し、評論家の荻上チキさんが「被害者のドレスコードを求められる」と指摘されていましたが、これはまさに私自身がずっと抱えてきた葛藤でもあります。

被害者らしいイメージというドレスコード(枠)ーーここから少しでも外れてしまえば、被害に遭ったことを認められない、ということを私も経験してきました。ネット上では「人前に出て話せるなら被害なんてなかったのでは」と、真偽を検証するという大義名分のもと、私がイメージからいかに外れているのかが議論されました。これはセカンドレイプです。

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